八重洲の地名の由来ともなった、ヤン・ヨーステンの物語

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「八重洲」といえば、まさに東京駅の玄関口ですよね。江戸城がある丸の内とは逆にあり、ビジネスセンターが多いため観光向けではありませんが、the 東京の中央に位置します。

 

ところで、八重洲って面白い字書くと思いませんか??意味的には「幾重にも重なった洲」というところですかね、なるほど。確かにこのあたりは昔入り江であり、海すれすれの場所でした。ですが実はこの八重洲という名前の由来は、とある外国人にあるんです。徳川家康とも縁のあるこの外国人と八重洲の物語をお話します。




 

オランダ人、ヤン・ヨーステン


ずばり、その外国人とはオランダ人の「ヤン・ヨーステン」といいます。後ほど詳しくお話しますが、このヤン・ヨーステンは訳あって日本に漂着し、徳川家康に気に入られて和名をもらいます。その名も「耶楊子(やようす)」といいます、なんか和名というより中国名みたいですよね。

 

そして、今の八重洲あたりに屋敷をもらい、そのあたりの地名を彼の和名である「耶楊子(やようす)」が訛り、「八重洲」となったわけです。めっちゃいいところに土地もらってますよね、いいなー。

 

では、そんな彼はどういう経緯で日本にやってきたのでしょうか??見てみましょう。

 

ロッテルダム発、リーフデ号


この江戸時代初期というのは世界的にみたらまさに大航海時代です。ヨーロッパによるインド貿易なんかも始まっていたころです。なんたって、江戸時代が始まる前の1543年にはポルトガル人が種子島にやってきて銃を売ってるくらいですからね。アジアとの貿易は儲かるんです。

 

というわけで、ロッテルダムから5隻の船がアジアに向けて出港します。何も珍しいことはありません。1598年6月24日のことでした。その中の一隻が「リーフデ号」といい、その船に航海士ヤン・ヨーステンが乗っていました。ところが、もちろんこの頃の航海図は正確ではありませんし、google mapもなければGPSもありません。

 

他国からの拿捕や悪天候、流行り病などで最終的にはリーフデ号1隻が日本の豊後(いまでいう大分県)に漂着します。1600年4月19日のことでした。なんと、ロッテルダムを出発してから2年弱かけて日本までたどり着いているんです。飛行機が発明された今では考えられませんよね。

 

110人のリーフデ号の乗組員のうち、日本にたどり着くことができたのはたったの24人だけでした。恐ろしい時代です。

 

海に生かされ、海で死す


2年もの歳月をかけて日本にやってきたヤン・ヨーステンは、先述しましたが徳川家康に気に入られ、和名もあたえられます。そして、日本の女性と結婚します。苦難後の順風満帆に見えましたが、彼はその後東南アジアに向けて朱印船貿易を始めます。そして最期はなんとインドシナで彼の乗っている船が座礁し、溺死してしまいます。

 

まさに、海に生かされ、海に死す人生でした。そして、そんな彼の名前が「八重洲」となっているとは、まさか露にも思わないでしょう。少し変わった、地名の由来のお話でした。

 

ちなみに、リーフデ号にはイギリス人として初めて日本にやってきた「ウィリアム・アダムス」という人物も乗っており、この人も徳川家康に信任され、「三浦按針」という和名を与えられ、日本の妻も迎えます。家康の旗本となったと言われていることからも、信頼されていたんでしょう。鎖国体制になってからは不遇でしたが、このような物語もまた日本の歴史となっているんです。




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