軍畑の地名の由来は辛垣の戦いに由来した?実地検分へ出陣!

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目覚めるや否や、「ここはカリフォルニアか!!」という日本でも年に何回かしかない恵まれた天気だったので、いてもたってもいられずに、前から行きたかった「軍畑」へ出陣(東京都青梅市の青梅線にある駅名)!もちろん、目的は地名の由来ともなったこの軍畑という地を直接目で見ることです。気付いたら電車に飛び乗っていました。

 

のっけから謎を解いてしまうと、この「軍畑」の地名いうのは「辛垣の戦い」に由来するんです。では、さっそくその地名の由来をみていきましょう。




 

まずは青梅線に乗り、軍畑駅へ


さっそく出発です。車で行ってもよかったんですが、アイキャッチ画像に駅の看板を使いたかったのと、軍畑って無人駅なんですけど「僕の夏休み感」を感じるために、今回はあえて電車でいきました笑 まず、地元駅から青梅線に乗りまずは青梅駅へ。青梅駅から奥多摩駅までは4両編成の単線になっているので、青梅駅で4両編成車両にのりかえます。

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青梅駅はなかなかレトロ

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知る人ぞ知る。知らぬ人は知らぬ。

青梅駅で待つこと15分、やっと奥多摩行きがきてくれたので、奥多摩行きにのり軍畑駅へ!乗ること15分ほど、ついに軍畑駅へ到着です!軍畑駅の前は車で何度も通ったことあるんですが、そういえば電車で来たのは初めてでした。登山客やハイキング客が多かったですよ。外国人もかなり多くてびっくり。

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軍畑駅へ到着

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もちろん無人駅です

まずは時刻表にちゅーもく!!!一時間に2本が通常です!!なので、帰りの時間をチェックして、いざ軍畑フィールドワークへ!ちなみに、軍畑駅は関東の駅マップでいうと、ここです。

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左やや上の矢印が軍畑駅




軍畑の重要なキーワード、「三田氏」


ここからは、歴史の話が濃くなります。この軍畑の周辺は鎌倉時代から続く名門の「三田氏」が支配していました。戦国時代の関東といえば、相模の「北条家(北条氏康)」と甲斐の「武田家(武田信玄)」、そして越後の「上杉家(上杉謙信)」の三つ巴の時代でした。

 

この三田氏というのはもともとは関東管領(鎌倉公方を補佐する役職名)の上杉家に従っていましたが、北条家の勢いが盛んになると、北条家の傘下に入ります。ところが1561年、上杉謙信(この時は長尾景虎といいます)が北条氏康の本拠地である「小田原城」を攻めたとき(越後からやってきたんです)、上杉側に寝返ります。上杉謙信は不思議な人物で、土地を重要視せず義を重んじていました。あまりふさわしくありませんが、世界の警察的な感じでアメリカちっくだったんです。なので、関東で困ってる人がいたら、助けにいくような感じで、関東を転戦しまくっていました。

 

というわけで、征服というより成敗という感じだったので、堅牢強固な小田原城は落城せず、「これで北条も懲りたろう」といって謙信は本拠地の越後へ帰陣します。謙信が越後へ帰陣すると、上杉側に寝返っていた関東武士は次々と北条側へ戻っていきました。しかし、三田氏は違いました。三田氏はそのまま北条家に対して対抗し続けました。

 

それを悪く思った北条氏康は、彼の次男である「北条氏照」を三田氏討伐に向けます。ここに「辛垣の戦い」が勃発するんです。時に1563年のことです。まだ、氏照が八王子城を築城する前のことです。

 

辛垣の戦い諸戦は多摩川にて


さっそく軍畑駅を出て、軍畑大橋がかかる多摩川へ向います。ここが、辛垣の戦いの緒戦となった場所です。軍畑駅から下り降りていくこと5分、軍畑大橋につきます。

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気分は僕の夏休み

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軍畑大橋が見えてきます

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多摩川は透き通っていました

まさに、この多摩川が辛垣の戦いの緒戦となった場所です!1563年、氏康の次男である氏照は八王子方面からこの多摩川をわたりはじめます。もちろん、当時は戦畑大橋はかかっていません。当時の三田氏当主の「三田綱秀」は現在の軍畑駅からやや北東よりにある「辛垣城」に兵を集め、多摩川に防衛線を敷きます。ここに、多摩川を渡りはじめた北条軍とそれを防がんとする三田軍の戦がはじまります。これが、「辛垣の合戦」の緒戦です。

 

しかし、北条軍の圧倒的な軍力の前に、多摩川の防衛線は破られてしまいます。三田軍は辛垣城に篭城するも、北条軍に火を放たれ、敗北。当主の三田秀綱は「岩槻城」「太田資正」の元へ敗走し、そこで切腹します。

 

この「辛垣の戦いこそ、軍畑の地名の由来」となった戦いなんです。そして、それを象徴するかのような塚も存在するんです。

 

ちょっと怖いぞ、鎧塚


この軍畑大橋のすぐ近く、軍畑駅から降りてすぐのところに「鎧塚」なるものが存在します。これはその名のとおり、辛垣の合戦の戦死者の鎧や槍等の武具を埋めるために築かれたといわれています。

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供養社が見える

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鎧塚の説明板

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お地蔵様もいらっしゃる

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これを登るのは・・いろんな意味で厳しい・・

 

これ、夜になるとたぶんやばいです。外灯もろくにないので、ただならぬ雰囲気になると思います。僕の夏休み的な日のしかも中天の時にきて大正解でした。北条家はその後、関東一円に北条帝国を築いたのは言うまでもないですね。最期は豊臣秀吉の北条征伐で関東北条帝国は滅亡してしまいますが、圧倒的な兵力と経済力である北条家の前に、果敢に立ち向かった三田氏の痕跡が地名になって今なお、生き続けているんです。




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