日光「戦場ヶ原」の地名の由来を歴史的解釈を加えて解説!鬼怒川にも関係するその秘密とは!

koyo

夏が過ぎ、風あざみ(そういえば風あざみって何だ?)、ではなく早くも秋ですね。夏はもちろん素晴らしい季節ですが、秋の楽しみといえばいわずもがな「紅葉」ですよね!あの冬への通過儀礼である移り行く様は日本人の心にフィットします。紅葉を見ることで、心の中でも人間は冬の到来準備に入るのだと思います。みなさんは今年はどちらの紅葉をみにいきますか??さて、そんな紅葉の名所のひとつに「日光」があります。関東の学生はよく修学旅行でいきますよね。私ももちろんのこと小学生の時に行きました。

 

そんな日光の観光スポットの一つに「戦場ヶ原」という湿原があります。標高約1400メートルのところにある広さ400ヘクタールにもおよぶ大湿原は様々な生態系が存在していることから、「ラムサール条約(湿地の保存に関する国際条約)」の登録湿地ともなっており、素晴らしい散策路となっています。

 

と、「戦場ヶ原の今の形」はここまでにして、ここからは「戦場ヶ原の歴史」についてお話します。考えてみたらおもしろいですよね、「戦場ヶ原」という地名!歴史風味的には食いつかないわけにはいかないです。もうそのまんまですよね、何かの戦いがあったことが地名からそのままわかります笑 今回はその戦場ヶ原の地名の由来を、歴史的解釈を加えて説明します。




 

修学旅行生にも説明するお決まりの説明


「戦場ヶ原神戦譚」にも記されていますが、お決まりの説明はこうです。

 

『当時の下野国(今の栃木県)の二荒神(男体山)と上野国(今の群馬県)の赤城神(赤城山)が中禅寺湖をめぐる領土争いで、それぞれ大蛇と大ムカデに化けてこの戦場ヶ原を舞台に戦ったというものです。そして勝ったのは二荒神のほうであったと。赤城神は上野国へ撤退します。なのでこの地は「戦場ヶ原」と名づけられています。』

 

男体山は日光の象徴でもあり、中禅寺湖からも見えますよね。また、赤城山といえはガリガリ君で有名な赤城乳業のある群馬県のあの赤城です。赤城高原も有名ですね。ここからが歴史の話です。主にちゃんとした記録をつけてなかった古代というのは歴史的な事件は大抵人の伝承として伝わっていきます。そして伝承として伝わるときは、複雑な伝え方だと途切れてしまうので、だいたいは簡単な比喩的表現が使われるものです。ここでは、それを「男体山」と「赤城山」という群馬県と栃木県を代表する山に例えたのでしょう。

 

以上を踏まえて、現実的な歴史的解釈を加えてみましょう。

 

ポイントは「毛野国」


これは5世紀よりも前の話になりますが、今の群馬県と栃木県の南部一帯は「毛野国(けの/けぬこく)」という風に呼ばれていました。この毛野国は5世紀末頃から「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しつもけの)」に別れ、それがそのまま「上野国」と「下野国」となり、現在の群馬県と栃木県にいたるわけです。もともとは「第10代崇神天皇皇子」である「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が東国を治めるためにこの地に入植したといわれています。この豊城入彦命こそがこの「毛野国の始祖」と考えることができます。ちなみに、群馬・栃木に今でも「毛」のつく地名が多いのは、これらにちなんでいます。例えばJRの「両毛線」は群馬・栃木を横断するように走ってますよね?また、群馬県の「上毛高原」もまさに「上毛野」からきています。

 

実際に、日本書紀では「上毛野 稚子」という人物が663年に朝鮮半島で勃発した「白村江の戦い」に前将軍として派遣され、戦果をおさめたことが日本書紀にも書いてあります。これは、まさに「上毛野」の人物でしょう。なので、この頃からこのあたりの地域では軍事的要素を持つ集団がいたことは間違いありません。

 

ちなみに、この「毛野国」の境界線こそが「毛野川」→「ケヌガワ」→「鬼怒川」と転じたともいわれています。これも、ありえぬ話ではありません。というかおそらくそうなのでしょう。「鬼が怒る」というのは、鬼怒川がたびたび昔から氾濫していたから、それも表現しているのでしょう。

 

というのがまず歴史的事実としてあります。そこから改めて戦場ヶ原に目を戻してみましょう。



戦場ヶ原の歴史的解釈


戦場ヶ原で戦いが発生した年代は定かではありませんが、おそらく「まだ毛野国が上毛野と下毛野に分かれていなかった時」「またはその直後」でしょう。このあたりの一族(毛野族と呼ぶとしましょう)がささいなことから、中禅寺湖周辺にて領土争いが勃発します。争いは赤城山付近を縄張りにしていた毛野族と男体山付近を縄張りにしていた毛野族です。しかし、中禅寺湖畔は平地に乏しいため、戦の舞台となったのは今で言う戦場ヶ原でした。激闘?の末、勝利を収めたのは男体山を縄張りにしていた毛野族でした。敗れた赤城山を縄張りとしている毛野族は赤城山まで後退することとなります。

 

そして、この事件をきっかけとして赤城山と男体山を縄張りとする毛野族の不仲さは確定的となり、毛野国は上毛野と下毛野に分裂してしまったのでしょう。または、他の事件がきっかけで分裂した上毛野と下毛野が領土境界線を決めるための戦いであったとも考えることができます。

 

ですが、これをそのまま伝承とようとすると、かなーーり難しいですよね??そういう場合は「神様」を使うとかなんちゃら一族を「生き物」に例えるとすると、非常に伝えるのが楽になるんです。なので、「赤城神」とか「二荒神」とか、「大ムカデや大蛇」が登場したのだと思います。

 

 

と言う風に、伝承は意外と馬鹿にすべきものではなく、ある一定の歴史的事実が顔を出していると考える方が妥当なんです。特に古代の話は、です。さっ!ということで、秋の紅葉、楽しみますかーーーー!!!!いざ鎌倉ならぬ、いざ日光!




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