二宮金次郎はファイナンシャルプランナーだった?なぜ、銅像になっているかも簡単に解説!

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JR御殿場線の松田駅に行ってきました。駅前を通ると、なんと「二宮金次郎」とその石碑、説明書等があるではないですか!もしかしたらこの辺に「二宮金次郎」に関係する記念碑があるのでは?と心の中で思っていたので、発見して嬉しくなりました。

 

この「二宮金次郎」ですが、小学校にある銅像として有名ですよね。私の小学校は新しかったので設置は無かったのですが、古くからある小学校には設置されている確率が高いです。さて、みなさんは「二宮金次郎がどういう人でなにをした人」か知っていますか?この、薪を背負いながら歩きスマホならぬ、歩き読書をしている姿と名前だけは知っている人が多いかもしれませんが、なぜ銅像になっているのか知っている日本人は少ないのではないでしょうか?

 

例えば、留学生や外国の友人なんかに、「あの像の人は何をした人なの?」と聞かれて答えられないと恥ずかしくないですか?ということで、彼の生い立ちとどんなことをした人かを簡単に説明します。




金次郎の生い立ち


「二宮金次郎」は本名を「二宮尊徳(たかのり・そんとく)」と言い、1787年に相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)で百姓の長男として生まれました。

 

彼の家はお世辞にも裕福とはいえず、さらにこの地域に流れている「酒匂川(さかわがわ)」の幾度とない氾濫により、田畑が壊滅したり、家が流されたりとかなり悲惨な幼少期を過ごします。

 

しかも、彼が14歳・16歳の頃に父親、母親も亡くしてしまい、祖父の家で育てられます。しかしこの祖父がケチでケチで・・・・夜金次郎が油に火を灯して読書をしていると、「お前が油を使うなんてもったいない!だれが買った油だと思ってるんだ!」という次第です。そこで、金次郎は一計を案じます。なんと、「アブラナを自身で植え、菜種油を採取して油としたり、その油を売って本を買ったり」ということをし始めます。

 

その後、金次郎は祖父の家を出て、親族の家に寄宿しながら働き、自身の土地を買い戻し、さらに田畑を小作に出す等努力工夫を行い本家の再興に成功します。

 

ファイナンシャルプランナー金次郎


ここまでの彼の生い立ちを見てみると、「逆境や理不尽が多い中、それを努力や工夫で跳ね除ける力」が強いことが分かります。特に、貧乏ながらも「収入の道を自分で作る」こともできる人です。

 

その後金次郎は農園を営みながらも自身は小田原に出て、武家奉公人として働きます。地道な創意工夫やこれまでの働きぶりを評価された金次郎は、小田原藩家老である服部家から、服部家の財政立て直しを依頼されます。そこで金次郎は5ヵ年計画をたて、負債償却等を行い見事服部家財政の建て直しに成功します。もはや、江戸時代版のファイナンシャルプランナーですよね。財政立て直しのプロです。

 

その後も彼は多くの小田原藩内の財政立て直しを図ったり、幕府の役人として関東各地の荒廃した村を再興したりと、ファイナンシャルプランナーの力を発揮します。そして、最後の仕事場である「下野国今市村(現在の栃木県日光市)」で亡くなります。



なぜ金次郎は銅像になっているか?


ここまで見ても分かるとおり、金次郎は決して「裕福な生まれではない」ながらも「自ら勉学に励み」そして「人の役に立つことに従事」したことが分かりますよね。つまり、「誰しも頑張れば、成功することができる。また、それを人の役に立つことに使いなさい」という人徳的なものとも合致します。

 

それを、明治政府は「こういう人物が育って欲しい」という教育指針の柱としたわけです。ただ、教育指針として文章に残したところでインパクトや記憶に残らないので、人の目に見える形として「銅像」にしたわけです。しかも「金次郎の極貧幼少期である、薪を背負い、ながら読書」をしている姿を銅像に。

 

JR松田駅はちょうど彼の生誕地近くのため、記念碑が設置されていたというわけです。

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松田駅前銅像

 

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生誕地記念碑

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説明書

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また、この松田駅近くの西平畑公園からは、足柄山や金時山、また酒匂川と相模湾もみえてまさに絶景です。この時期は川津桜も咲いていて、極上の景色と雰囲気が楽しめますよ。ぜひ、日本人なら金次郎の歴史を知っていてあげてください。




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