桶狭間だけじゃない!日本三大奇襲の一つ、川越城の戦い(川越夜戦)
前回の記事で、織田信長が今川義元を見事なまでに破った「桶狭間の戦い」を奇襲戦の観点から解説しました。
参考記事:【大河ドラマ おんな城主直虎】桶狭間の戦いにみる、信長奇襲戦のすごさ
桶狭間の戦いは日本史の中でも有名度がピカイチの奇襲戦ですが、実は「日本三大奇襲」と呼ばれるものをご存知でしょうか??これは日本の戦国時代における三つの有名な奇襲戦のことを指しています。
命名したのは江戸時代の歴史家で「頼山陽」という人です。彼は文政12年(1829年)に刊行した歴史書「日本外史」で日本の歴史上特筆すべき三つの奇襲戦を示し、これを「日本三大奇襲」と呼んだんです。
日本三大奇襲の一つは、言うまでもなく「桶狭間の戦い」です。では、その他の二つ、すぐに言えますか??戦国史が得意な人なら、聞けばあっ!と思うはずです。知らない人もこの際、どんな戦いだったのかを解説します。いざっ!
日本三大奇襲の一つ、川越城の戦い
日本三大奇襲の二つ目は「川越城の戦い」です。はいっ、今では小江戸と呼ばれている埼玉県にあるあの川越ですね。
どんな戦いだったのかを簡単に説明します。
戦国時代の関東の覇者といえばミツウロコで有名な「北条氏」ですが、無論はじめから関東全域を支配していたわけではありませんでした。最初は小田原近辺を支配していたに過ぎない小大名だったんです。
結論からいいます。北条氏はこの「川越城の戦い」に勝利し、北条氏の実力と基盤を盤石なものにします。つまり、関東支配のまさに分岐点となった戦いが川越城の戦いだったんです。
<勢力図>
- 北条軍:約1万
- 山内上杉軍・扇谷上杉軍・足利古河公方軍の連合軍:約8万
戦いの陣容は、北条軍約1万に対し、上杉・足利連合軍約8万というとてつもない兵力の差がある戦いです。
山内上杉氏は当時「関東管領」という官位を持っており、関東を治める立場にあるものでした。一方、北条側は関東の一大名にすぎません。しかし、関東制覇を狙う北条にとっては「関東管領」というものは邪魔で仕方ありません。つまり、滅ぼす対象であり、通らねばならない道でした。
では、どうやって北条軍は約8万もの敵に勝利したのでしょう??
北条氏康のとった作戦とは
当時の北条家当主は、初代である「北条早雲」から数えて三代目の「北条氏康」です。今川義元、武田信玄と三国同盟を結び、北条家の勢力拡大につくした名君としても知られていますね。
ズバリ、彼のとった作戦は「夜襲」でした。
上杉連合軍は北条氏康の義弟である「北条綱成」が守る川越城を包囲していました。守兵の数、約3000。この人も名将です。北条家には優秀な一族が多いんです。それに対し、北条の本城である小田原城から援軍を引き連れてきたのが、北条家当主の北条氏康でした。
氏康は敵方の数を見てまともに戦っても勝てないと即断し、まずは偽りの書状を連合軍に送ります。内容はこうです。「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と。それと同時に、連合軍が戦を仕掛けてきたらすぐに退くことを繰り返し、北条軍の戦意が低いことを相手側に見せつけました。
すると、戦意が低く、降伏の申し出をしてきた北条軍を連合軍は侮りはじめます。祝戦モード満開で、酒宴なども催されていたといいます。まさに、油断中の油断状態となってしまったんです。
連合軍が酒宴などを開き、やる気無しモードが最高潮に達した時・・・・・北条氏康が動きます。「夜襲」です。北条氏康の軍と、それに呼応した川越城からの北条綱成の挟撃は見事にはまります。
奇襲の中でも夜襲だったので、この戦いは「川越夜戦」ともいわれています。
連合軍の無残なる大敗
結果は圧倒的な北条軍の勝利に終わります。
この戦いで扇谷上杉家の当主である「上杉朝定」は戦死。これが原因で、扇谷上杉家は滅亡します。
山内上杉家の当主「上杉憲政」は関東から逃れ、越後で再起をはかります。しかし、越後の地で山内上杉家も血脈が途絶えます。「上杉」という姓は、越後の大名であった「長尾景虎」に関東管領職とともに引継ぎ、ここに「上杉謙信」が誕生することとなります。
古河公方軍の「足利晴氏」も川越城の戦いの後勢力を弱め、ついには1554年に北条氏康によって古河城を攻められ、ここに滅亡します。
そして、北条家は関東の覇者となるわけです。
織田信長の桶狭間における奇襲戦もそうですが、奇襲戦で成功するパターンはやみくもに玉砕覚悟で仕掛けるわけではなく、計算しつくした上で、もっとも勝算がある戦法として選んだのが「奇襲」だったというあくまで結果論であったと個人的には思います。
次回は、三つ目の三大奇襲である「厳島の戦い」をご紹介します。
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