九州統一を目指した男、後醍醐天皇の皇子懐良親王の物語

sakurajima

今は歴史に埋もれてしまっていますが、昔、九州を一つの国にしようと画策した男がいました。その名も「懐良親王」。名前の通り、皇族です。一度は聞いた事があるでしょう、後醍醐天皇の皇子です。

 

歴史の教科書にも顔を出さない人物ですが、日本の歴史にとって非常に重要な道標を残した人物です。このサイトでも一度は取り上げてみたかった人物なので、ここでご紹介したいと思います。




 

時代背景を整理しよう


懐良親王は鎌倉時代から南北朝時代に生きた人物で、年代でいうと1329年~1383年の人ですが、この「南北朝時代」というのがミソなんです。南北朝時代ってあまりイメージがわかなくないですか??この南北朝時代というのは、かなり複雑な歴史がからみあってるので、なかなかドラマや小説の題材になりにくいんですが、逆にポイントさえおさえてしまえば、非常に面白い激動の時代なんです。

 

簡単にポイントをおさえてみましょう。

 

鎌倉時代を倒したのはだれでしょう??いわずもがな、「足利尊氏」ですね。鎌倉幕府は源頼朝が創建し、その後執権である「北条家」が長らく治めてきたいわば「北条時代」でした。それに終止符を打ち、源氏のものに取り戻したのが足利尊氏です。足利家は源氏の棟梁ですから。

 

足利尊氏は、侍による幕府樹立を目指しました。ここで、もう一人の重要な人物が登場します。「後醍醐天皇」です。後醍醐天皇はかなり癖の強い人物なのですが、それはさておき、後醍醐天皇の目指す姿というのが足利尊氏のそれとは異なりました。それは、「天皇による政治体制」でした。

 

簡単にまとめます。

  • 足利尊氏:「政治は俺達侍がやるから、天皇は象徴としていてくれ」
  • 後醍醐天皇:「いやいや、天皇が政治もやるから、侍達は戦の時の手足となってくれれば良い」

こんな主張から、足利尊氏方と後醍醐天皇方で割れていくわけであります。それが、後々に「足利尊氏方を北朝、後醍醐天皇を南朝」となり、全国に争いが波及するわけです。

 

後醍醐天皇の戦略とは?


ここで、初めて懐良親王がでてきます。後醍醐天皇にはたくさんの息子がおり、その皇子達を日本全国に派遣するわけです。そして、地侍や地主勢力を南朝方に取り込み、南朝勢力の拡大を画策しました。

 

その皇子の一人である人物こそが懐良親王です。懐良親王は九州へ派遣されることとなり、10代前半の頃に薩摩(今でいう鹿児島県)に上陸しました。そこから、懐良親王のストーリーが動き始めます。

 

破竹の快進撃がはじまる


後醍醐天皇の息子達にはなぜか優秀な人が多かったのですが、この懐良親王はずばぬけていました。時代を読む力、統率力、戦術眼。どれをとっても一級品でした。まずは九州制覇を目指した懐良親王ですが、九州の地は北朝側につく勢力が数多く存在しました。

 

足利尊氏は一度九州へ逃げ落ちがことがあり、その時に足利方につく源氏や配下などを九州に残していました。例えば、薩摩に根を張る島津などは、北朝側の筆頭でした。しかしながら、懐良親王はそれらの勢力と対峙しつつ、九州の諸勢力を味方につけ始めます。そして、その破竹の快進撃と契機となったのが、肥後(今で言う熊本県)の「菊池武光」の存在でした。菊池家は平安時代から続く九州の名門で、今では菊池市という地名にもなっています。懐良親王は肥後にある隈府城に入り、そこで「征西府」をひらきます。九州制覇作戦本部みたいなもんですね。

 

懐良親王と菊池武光の相性は最高でした。北朝側の九州探題である「一色範氏」や豊前(今で言う大分県)の「大友氏泰」、北九州の雄である「少弐 頼尚」らを次々とやぶり、九州における南朝勢力が最盛期を迎えることとなります。

 

日本国王と認められる


一方その頃、大陸では「明」という国が興きていました。大国中国ですね。懐良親王はその明の太祖(国王)と書簡のやりとりをはじめるわけですが、そこでなんと「日本国王」と認められることとなります。これには、北朝の足利側も驚きです。

 

この時代は、歴史の教科書にもでてきますが「日明貿易」の時代です。日本と明が盛んに貿易をする時代ですが、明と正式な書面等のやりとりをする場合は、「懐良」の名を使わなければ、やりとりできないことを意味します。その後、懐良親王の名を北朝側に再契約したのは金閣寺を建てたことでも有名な足利三代将軍の「足利義満」ですが、それまではずっと「懐良」の名でしか明は門戸を開いてくれなかったので、大混乱状態だったそうです。

 

その後、菊池武光が病死し、北朝側から新たな九州探題として「今川了俊」が派遣されたころから、九州南朝の勢いは衰え、懐良親王自身も博多・大宰府を脱出します。そして、無念の病死となり、この世を去ることとなります。

しかしながら、一時ではあるものの対外的に日本国王として認められ、九州統一を果たした男が存在したことを知っている人は少ないのではないでしょうか。この先の話をもっと知りたい人は、「武王の門」がおすすめです。自分も何回読んだか分からないくらい繰り返し読みました。




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1 件の返信

  1. 2017年4月29日

    […] 参考記事:九州統一を目指した男、後醍醐天皇の皇子懐良親王の物語 […]