なぜ龍角散には下り藤の家紋がついているのか?

ryukakusan

わたくし事ですが、気管支が人より弱く昔から咳をしがちなんです。もちろんアレルギー科などに通って投薬治療等もしていますが、なんだかんだで対処療法的に一番効くのがのど飴なんです。根幹治療にはなりませんが、一時的にはとても楽になります。簡単に。

 

数あるのど飴を試してきましたが、なんだかんだで一番効くのがあの「龍角散」ののど飴でした。別にステマじゃないですよ。効き目よし、後味より、口の中が荒れないの三拍子そろったかなり有能なのど飴なので、平時かなり愛用しています。

そんなこんなで龍角散を愛用しているわたくしですが、ある時ふととあることに気づきます。「あれっ?そういや龍角散のパッケージって、下り藤の家紋ついてね?」

 

下り藤の家紋はこんなやつです。どんっ。

sagarifuji

一度は見たことないでしょうか??「藤」とつくことからもお分かりかもしれまんが、この家紋は藤原家系の家紋なんです。よーくみたら龍角散のパッケージには「下り藤」がついているんです。

のど飴ではなく、医薬品の龍角散にも下り藤が。実はこれにはおもしろーい背景があるので、龍角散と下り藤の関係についてご紹介したいと思います。




 

龍角散の歴史は古く


龍角散の歴史は、「藤井家」というのがキーワードとなります。そう、結論から言ってしまえば、この「藤井家」っていう文字の中に「藤」が入ってますよね?つまり、「藤井家」の家紋こそが「下り藤」の正体だったんですが、ではこの藤井家と龍角散の関係についてお話します。

 

話は江戸時代まで遡ります。藤井家は代々久保田藩(今でいう秋田県)の藩医でした。藩医というのは、藩お抱えの医師という意味で、藩によってお墨付きを与えられていたわけです。ちなみに、久保田藩はあの有名な佐竹家ですね。というよりも、なんとまだ佐竹家が水戸を本拠地としていた戦国時代から、佐竹家と藤井家の関係は続いているそうです。

秋田に転封された佐竹義宣に従い水戸から大曲に移ってきた藤井家は、代々秋田藩の御典医を務めた。龍角散の原型はその秋田初代の藤井玄淵が考案し、二代目藤井玄信が改良した。この薬は廃藩置県で消える藩から藤井家に下賜され、正亭治は「龍角散」の名前で一般向け薬として売り出した。

あんばいこう著「食文化あきた考」(無明舎出版)より

 

ちなみに、佐竹義宣については以下記事をご参照ください。

参考記事:秋田美人の由来と理由を歴史の観点から考える

 

さて、この龍角散ですが、この原型となるのは藤井玄淵が江戸時代後期に藩薬として開発したのが始まりといわれています。その後、藤井正亭治が藩主である佐竹義堯の喘息を治すため藤井玄淵が作った龍角散の原型薬を改良しました。その時に使用されたのが、化石動物の骨である「竜骨」、龍脳樹という植物の樹脂が結晶化した「龍脳」、鹿の角を原料とする「鹿角霜」だったといい、そこから「龍角散」と名付けられたそうです。

 

いや~なんと驚きです。飴一つにしてもこんなに歴史があるんですから。これからも龍角散に助けられながら生きていきますが、それは歴史に助けられているといっても過言ではありません。

 

ふとしたところで、家紋は現代の生活に顔を表していますよ。ぜひ、見つけたら教えてくださいね。




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