あの武田信玄より先に風林火山を用いた麒麟児、北畠顕家の物語

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「武田信玄」といえば知らぬ人はいない戦国時代のヒーローですよね。山梨県で輩出した有名人の中で一番有名なのは信玄なんじゃないでしょうか?山梨県は未だに「信玄餅」や信玄系の歴史遺産が産業にまでなっています。

 

さて、この信玄が用いた軍旗として有名なのが「風林火山」ですよね。「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山(はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」として知られている風林火山はもともと「孫子」という中国の兵法書からの引用なんです。信玄は幼い頃より寺に入り、孫子の兵法を学んでいたといいます。

 

風林火山といえば武田信玄のイメージが強い、というかほとんどの人が武田信玄=風林火山と思っているかもしれませんが、実は武田信玄より前に風林火山の軍旗を用いたと言われている人物がいます。

 

私が最も尊敬する人物の一人、本日はその人物の物語についてのお話です。あついですよ。ちょっとマニアックな部分が多いですが、ぜひお読みください。




 

麒麟児、北畠顕家


その人物の名は「北畠顕家」といい、南北朝時代の人物です。この人物は1318年にこの世に生を受け、1338年に亡くなってしまうのですが、弱冠二十歳でこれほどの人物がいるのか!と思うほどの麒麟児です。また顕家は史上最年少の14歳で参議(従三位参議という、今で言う政府高官)の位を与えられるほどの秀才でした。

 

そして、顕家は公家でもありながら武将でもあり、さらに陸奥守(むつのかみ)でもありました。陸奥守というのは今で言うところの、東北を一手に担う政務長官みたいなもんです。なぜ顕家がそれほどまでにすごいのか、時代背景をおって順に説明します。この頃の歴史を理解するには、まずは時代背景を理解しなければなかなか頭に入ってきにくいんです。

 

激動の南北朝時代


この頃の南北朝時代というのは非常に時代が複雑なのですが、簡単にいうと源氏の武士の棟梁である「足利尊氏」と天皇である「後醍醐天皇」を中心とした朝廷の覇権争いの時代です。足利尊氏は「天皇は象徴として存在するだけでよい。武士が幕府をひらいて政治をする」という主張。一方の後醍醐天皇は親政を目指します。つまり、「天皇が政治も行う。武士はだまっとれ」という立場です。

<南北朝時代の構図>

  • 足利尊氏方=北朝
  • 後醍醐天皇方=南朝

参考記事:九州統一を目指した男、後醍醐天皇の皇子懐良親王の物語

 

そして、北畠顕家はこの南北朝時代においてどちら側かというと「南朝側」でした。そもそも北畠家は村上源氏の流れを汲む名門であり、さらに顕家の父親である「北畠親房」は公家であり、天皇の側近中の側近でした。ここまでくると、顕家の立ち位置が見えてきますよ。

 

陸奥守、北畠顕家


後醍醐天皇の戦略は、「日本各地に自分の息子達(皇子)を派遣し、各地の勢力を南朝方の味方につける」というものでした。そこで陸奥(今で言う東北地方)に派遣されたのが後醍醐天皇の第七皇子である「義良親王」でした。しかしこの時義良親王はまだ幼いため、その後見として随行したのが北畠顕家でした。この時顕家は「陸奥守」として陸奥政庁である多賀国府へ下向します。今の場所でいうと、宮城県多賀城市ですね。1333年、なんと顕家15歳の頃です。

 

多賀国府へ着任した顕家は次々と陸奥の反乱や不安分子を治め、統治を着実なものにしていきます。翌年の1334年には津軽地方の反乱を治めることに成功します。

 

対足利尊氏戦


この頃、足利尊氏と後醍醐天皇の争いは日に日に激化していました。そしてついに、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決意。配下の武将である「新田義貞」と「足利尊氏」のバトルが勃発します。この新田義貞と足利尊氏は同じ源氏であり、元を辿れば同族なのですが、もはやこの時代は源平合戦の頃のように同族でも綺麗な線引きができない時代になっています。

 

まず、新田義貞が京都より足利尊氏が居を構えている「鎌倉」へ進軍します。序盤は新田義貞の勢いすさまじく、義貞は一気に鎌倉付近まで攻め込みます。しかし、ここから尊氏の反撃が始まり、「箱根・竹ノ下の戦い」で義貞軍を破り、今度はその勢いで義貞を追うと同時に京都に攻め込みます。

 

そして尊氏は一気に京都を包囲します。それに対するは新田義貞を中心に「楠木正成」「名和長年」など南朝方の武将でした。戦は数に勝る尊氏側有利かとおもいきや・・・・・ここですさまじい軍が尊氏を襲います。それは、「顕家率いる奥州軍」の急襲でした。なんと、顕家は陸奥から京都まで駆けに駆け、京都陥落寸前時に尊氏軍を襲います。「伊達行朝」や「結城宗弘」、「南部一族」ら陸奥の有力豪族の連合騎馬軍団ある奥州軍が鬼神のごとくひた走りしたこの早さは、「一日に平均40km弱も移動し、600kmに及ぶ長距離をわずか半月で駆けており、後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍」といわれています。

 

南朝連合軍はここに尊氏をやぶり、尊氏は九州へ逃げ落ちることとなります。そして見事に尊氏を破った顕家は陸奥へ戻ります。

 

二度目の強行軍


しかし、一度沈んでもただで起きないのが足利尊氏のすごいところでした。九州で再起をはかった尊氏は九州の南朝側の筆頭である「菊池武敏」「多々良浜の戦い」で破り、その勢いでまたもや京都を目指します。しかしここで、顕家にとって手痛いことが起きてしまいます。それは、「湊川の戦い」による「楠木正成」の戦死です。湊川の戦いにおいて、いわば新田義貞を逃すために尊氏と戦った正成は戦死してしまいます。南朝側において、新田義貞と顕家の組み合わせは決してうまくいっておりませんでした。一方、変幻の軍略家である楠木正成と顕家の相性は抜群でした。この正成の死が、顕家の人生をも狂わせて生きます。

 

尊氏が京都を目指している報を受けた顕家は、再度奥州から京都へ強行軍を進発させます。率いるのは「南部師行」や「伊達行朝」をはじめとする奥州精鋭部隊です。

 

まず手始めに奥州軍は鎌倉を守る足利一門の「斯波家長」を蹴散らし敗死させます。鎌倉を守っていた「足利義詮(後の足利二代将軍)」、「上杉憲顕」、「桃井直常」、「高重茂」ら足利重臣も鎌倉を逃亡します。鎌倉を落とした顕家はそのまま京都を目指し、東海道に配置された足利方の武将を次々と破っていきます。そして美濃(現在の岐阜県)における「青野原の戦い」で「土岐頼遠」を破った顕家はついに京都圏内へ突入。鬼神のごとくの進撃でした。

 

しかし、ここで新田義貞との不協和音がでてしまいます。楠木正成がいない南朝側は、各部隊の連携がうまくいかず、ほぼ各個が独自で戦を展開する有様でした。一方、足利尊氏率いる北朝側は足利尊氏の巧みな用兵・指揮のもと、見事なまでの連携がとれていました。一時は「天王寺の戦い」で北朝側を破りますが、数で勝る北朝側の集中砲火を浴びた奥州軍はじょじょに弱っていきます。

 

顕家諫奏文


そして、ついに最後の時が訪れます。北朝側のさらなる集中砲火を浴びた奥州軍はついに敗北。顕家も討たれてしまいます。享年、21歳でした。

 

顕家はこの死の直前に後醍醐天皇に向けた「諫奏文」を書き、天皇に向けて送りつけています。世に言う「顕家諫奏文」というものです。その内容は、以下のようなものです。

<顕家諫奏文>

  1. 速やかに人を選び九州、東北に派遣せよ、さらに山陽、北陸にも同様に人をおいて反乱に備えよ。
  2. 諸国の租税を3年免じ、倹約すること。土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう。
  3. 官爵の登用を慎重に行うこと。功績があっても身分のないものには土地を与えるべきで官爵を与えるべきではない。
  4. 恩賞は公平にすべきこと。貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである。
  5. 臨時の行幸及び宴会はやめるべきである。
  6. 法令は厳粛に実行せよ。法の運用は国を治める基本であり、朝令暮改の混乱した状態は許されない。
  7. 政治に有害無益な者を除くべきである。現在、貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。

 

顕家は南朝側にたっていましたが、後醍醐天皇の親政を朝廷の腐敗を嘆いていました。朝廷は腐っており、不公平な恩賞により武士が不満を抱くのだと。そもそも公平な差配と政治を行っていれば、南北に日本が分かれることはなかったであろうと。

 

顕家は自身の死を予見していたのでしょう。この顕家諫奏文はいわば真理であり、いつの時代にも通じるものです。若干二十歳の若者が書いたともおもえない、やはり顕家は日本でも稀に見る麒麟児だったのでしょう。

 

現在の日本では18歳に選挙権が与えられています。時代背景もあるのかもしれませんが、ここまで日本の行く末を考え行動し、二十歳そこそこで命を落とした北畠顕家という人物に、尊敬の念を抱かずにはいられません。・




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