英雄フィデル・カストロ氏の生涯と功績を簡単にまとめる

2016年11月25日(キューバ現地時間)、衝撃のニュースが世界をかけめぐりました。それは、「フィデル・カストロ氏死去」

フィデル・カストロ氏は間違いなく20世紀の激動の時代において、歴史を動かした一人であり、人々からは英雄と呼ばれた人物です。

そんなカストロ氏、名前は知られていても何をしたか分からない人が多いのも事実。そこで、フィデル・カストロ氏の生涯と功績を簡単にまとめます。




 

生まれ育ち


まだ第二次世界大戦が始まる前の1926年、キューバの地で農園を営むスペイン人移民の息子として生まれました。農場主の息子であったため、暮らしはそこそこ裕福だったそうです。

大学では法律を学びます。いわゆるエリートコースですね。しかし、この大学時代が彼の今後の人生を大きく変えてゆきます。大学入学の年が1945年、つまり第二次世界大戦の終結です。それと同時に、アメリカとソ連の冷戦開始を告げる年でもありました。
その荒波の中、彼は大学時代に政治活動として革命反乱同盟 (UTR)に参加することとなります。

 

武力闘争の開始


大学卒業後、弁護士になったカストロ氏は議会選挙に立候補します。しかし、その選挙中に軍によるクーデターが発生し、選挙の結果を無効になってしまいます。彼はすぐさま憲法裁判所に訴えでましたが、退けられてしまいます。そこで、司法の力では物事が動かないと悟った彼は、武装闘争へと舵をきることとなります。

1953年、彼は武装勢力を組織。各地を転戦します。そして6年後の1959年、ついに軍事政権を国外逃亡へと追い込み、ここにキューバ革命が成立します。


泥沼の冷戦へ突入


しかしキューバ革命が成就した1959年は、米ソ冷戦の真っ只中。地理的にはアメリカとキューバはとても近いですが、アメリカはカストロ氏を良く思っていませんでした。そこで、逆にソ連はキューバに大接近していくこととなります。なんといってもキューバはアメリカの目と鼻の先。共産圏の前哨基地にはもってこいの場所です。

ソ連からの猛烈な援助(バーター貿易)もあり、キューバは共産圏へと歩むこととなります。
そして、1960年のソビエトからキューバへの石油協定をきっかけとして、アメリカとキューバは国交断絶となります。


キューバ危機からソ連崩壊


1960年代に入り、米ソ冷戦はさらにヒートアップしていきます。1962年、ソ連はキューバにミサイル基地配置をすすめます。それに対しアメリカは海上封鎖等を実施。世に言う「キューバ危機」です。世界核戦争の現実味が臨界点に達しようとした時、米ソ両国が少しずつ手を引き始めます。アメリカはトルコの基地からミサイルを撤去するのと引き換えに、ソ連はキューバからミサイルを撤去することとなります。

その後、1991年にソ連が崩壊し、後ろ盾を失ったキューバは急激に経済不況に陥ります。経済政策において適切な処方箋を出せなかった彼に対して、国外逃亡者が多発します。反カストロ派という言葉さえ存在してきます。

 

アメリカとの国交回復へ


2000年代に入り、政権の舵は弟のラウル・カストロ氏へとバトンタッチされます。そして記憶に新しい2015年7月、キューバとアメリカの国交が回復。そして2016年3月にはアメリカのオバマ大統領がキューバを訪れ、国交正常化推進について協議を行っています。

 

まとめ:英雄フィデル・カストロ氏の功績


晩年の経済政策にはかなりの賛否があるものの、彼は激動の時代に自国民に対して自分達の足で立ち、そして行動することによって自分達の意志を実現可能であることを表した体現者です。それに人を惹き付ける力も加わって。

考えることはできても行動に移すことができない今の時代、彼のような強い体現者が現われることによって、国民全員に勇気を与え、行動せねば変わらぬことを示しました。

何よりも、キューバが他の国に属しておらず、キューバであり続けられ、良くも悪くも歴史上に度々登場することになるのは、彼がいたからです。彼のスピリットは今後キューバの地で受け継がれていくこととなるでしょう。




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