ナウマンゾウの名前の由来となったナウマンは、日本地質学の第一人者って知ってました?

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「ナウマンゾウ」って聞いた事ありませんか??いわずもがな、マンモス同様に氷河時代に日本に生息していたとされるゾウです。時期的には諸説ありますが約40~60万年前から生息しており、約2万年前に衰退していったと考えられています。単位が万年なので、なかなか想像しにくいですよね。西暦でさえ万年に達してないんですから。

 

そう、日本にもゾウさんがいたんです。そしてこのナウマンゾウなんですが、人の名前から取られています。その名も「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン」。ドイツ人です。ハインリッヒはドイツの名前ですよね。このナウマンさんは日本の地質学の第一人者とも言われているんですが、ナウマンゾウは知っていてもナウマンを知っている人は少ないと思います。少し悔しいので、ぜひここでナウマンについて解説したいと思います。ごめんよゾウさん、主役は君じゃないんだ。




 

ナウマンは「お雇い外国人」の一人


「お雇い外国人」って聞いた事ありませんか??ナウマンもこのお雇い外国人の一人なんです。お雇い外国人とは簡単にいうと、幕末から明治時代にかけて「西洋に習って新しい技術や学問を取り入れて、日本を近代化しようぜ!」という考え(殖産興業といいます)を基に、当時の先進国からその道のスキルを持った人を幕府・政府や藩・県が独自に雇った人達のことをいいます。

 

ナウマンは地質学者としてドイツから明治政府に招聘されました。彼は1875年(明治8年)から1885年(明治18年)までの期間、明治政府が雇ったお雇い外国人となり、現東京大学である「東京帝国大学の初代地質学教室教授に就任」し、責任者として日本の地質学調査を実施することとなります。彼はそこで日本初の地質図を作成し、いわば日本の地質学の祖は彼ということとなります。

 

ナウマンの功績その1:ナウマンゾウの発見


冒頭でも言いましたが、なんといってもこれでしょう、「ナウマンゾウ」です。知名度は抜群ですよね。ナウマンゾウの最初の標本は「横須賀」で発見され、ナウマンによって研究・報告されました。その後、北は北海道から日本各地でナウマンゾウの化石が発掘されることとなりますが、このナウマンの功績から、彼の名前をとり「ナウマンゾウ」と名づけられることとなりました。

 

長野県の野尻湖では大量のナウマンゾウ化石が発掘され、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」というものも存在します。未だ行けてないんですが、いつか行ってみたと思ったまま実行にうつせてないので、行けたらレポートします。

 

ナウマンの功績その2:フォッサマグナの発見


「フォッサマグナ」、まず言葉がかっこいいですよね。地質学の言葉って「プレートテクトニクス理論」「中央構造線」もそうですが、言葉がやたらかっこいいんです。それはさておき、日本のフォッサマグナを発見したのもナウマンです。山梨県にいくと、フォッサマグナ境から温泉がたくさん噴出しているため、温泉の説明書によくフォッサマグナの事が書かれていたりするんですが、普通に生活しているだけではまずフォッサマグナという言葉に出会うことはありませんよね。

 

詳しいことはさておき、なぜこれがすごい発見かというと、日本の全体像というのは江戸時代に「伊能忠敬」がかなり精密な日本地図をつくったことで、「あ、日本ってこんな形をしてるんだ!」というのがやっと分かりました。この伊能忠敬が作った日本地図は「日本の形」を捉えたのに対して、ナウマンは「日本の中身」を捉えました。つまり、「地層」です。

 

その結果、簡単な表現をすると日本にはいくつかの割れ目線が入っていることが分かりました。それを「構造線」といいます。ナウマンはその中で糸魚川と静岡に地質構造の異なるラインが走っているのを発見し、論文として発表しました。これを「糸魚川静岡構造線」といいます。

 

なにやら歴史ではなく地質学のお話になってきたのでここらへんでとめますが、いってみれば伊能忠敬は日本と表層を、ナウマンは日本の中身を解剖し、その構造を明らかにしたといえます。なので、今の日本地図や構造というのは伊能忠敬とナウマンの併せ技ともいえます。

 

 

それとは別に、「中央構造線」という日本の西から東に走っている構造線があるんですが、長野県の大鹿村というところに「中央構造線博物館」があるんですよ。これにも行ってみたいんですけどね、まだ行けてないんです。ナウマンさんのことを想いながら、いつか行けたらと思っています。




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