関東を説明したので、関西の地名の由来も簡単に解説
前回の記事で坂東(関東)の地名の由来について解説したので、ここで関西の地名の由来も説明します。
関西は関東という考え方があってこその地名なので、このタイミングで説明するのが一番しっくりくるんです。では、さっそくいってみましょう。
<参考記事>
その昔、関東は坂東と呼ばれていた。その名前の由来と理由について解説
関西というのは単なる対表現
前回の記事では、もともと関東というのは「坂東」であり、それが「関東」となったということを説明しました。
また、関東の「関」というのは、関所のことであり、東海道の「足柄関」と中山道の「碓氷関」のことでしたね。
と、するのであれば関西はどうなんでしょうか??と考える前に一つ大前提をお話します。
昔の日本の中心は京都と奈良です。つまり、そこを中心に考えて北やら東やら西などという方向を考えるわけです。そう考えると、関西って少しおかしくはないですか??だって自分達にとって京都と奈良が中心なのにわざわざ関西のように「西」なんてつけないですよね??
そう、今で言う関西の人達は昔は日本の中心でしたので、わざわざ関西なんで呼んでいません。ではなんて呼んでいたか??「畿内」と呼んでいたんです。畿内とはもともと中国で皇帝や王が住む周辺のことを意味していました。なので、日本もこれにならったわけですね。ということは関西ってなんざましょ??
結論からいいます。「関西とは関東に対する対表現」です。東に対する西、という塩梅です。そりゃそうですよね、日本の中心にいる自分達の場所をわざわざ「西」なんて表現しませんし。
では、関西の「関」とはどこの関か??
関東の対表現である関西。もちろん、関西の「関」とは関所のことです。では。この関所はどこのことなんでしょうか??これは、いがいとうんちくでも使えますよ。
<関西の関>
- 鈴鹿関
- 逢坂関(おうさかのせき)
- 不破関
- 愛発関(あらちのせき)
はい、上記4つの関が関西の「関」です。つまり、ここより西側を「関西」と表現したわけです。
鈴鹿関は鈴鹿サーキットでも有名なあの鈴鹿です。これは東海道の要所です。
逢坂関はまさにその名の通り大阪ですよね。百人一首にもでてきます。蝉丸。有名ですねー。昔は京都へ抜けるにはこの関を通らなければなりませんでした。東海道・東山道・北陸道から京都への要所です。
不破関はあの天下分け目の戦いである関ヶ原付近にあります。東山道の要所です。
愛発関は福井県の愛発山付近にあります。こちらは北陸道の要所です。
昔の日本の中心は京都奈良を中心とした畿内です。つまり、その畿内に入る道には関がたくさん設けられていました。その関の西側を関西という表現を、関東に対する対表現としてしたわけです。
なので、関西というのは関東ありきなんです。そう思うと、関東と関西の間が日本の中心だと考えることもできますね笑
昔の関東はまさに、福井・岐阜・愛知県辺りで、始まって居たような。
そして、飛騨の日高見国が拡がり、蝦夷エミシ・縄文人達が、少ない帰化人達が、仲好く暮らしていたのでしょうね。
それが、関を越えて東征勢力に押されてどんどん北に東に逃げて行ったのでは。
後の世には日高見は、東北に北海道に、行ってしまったようですね。
北上川の語源も日高見からだとか。
著名な民俗学者が、記しているそうです。
尾張から三河を従えて、美濃を捉えた織田信長の頃は、
近畿畿内を”天下”と捉えていたようで、
それで云うと、ある意味、信長は既に天下をとっていたんですね。
秀吉に先駆けて。
改訂:
昔の関東はまさに、福井・岐阜・愛知県 辺りで、始まって居たような。
そして国も覇権も関知しない、飛騨の 日高見国 が拡がり、蝦夷エミシ・縄文人達が、少ない帰化人達と仲好く暮らしていたのでは。
それが、
関を越えて攻めて来た東征勢力に押されて
どんどん北に東に逃げて行ったのでは。
後の世には日高見勢力は、
東北に北海道に、
行ってしまったようですね。
北上川の語源も日高見からだとか。 著名な民俗学者が、記しているそうで す。 尾張から三河を従えて、美濃を捉えた織田信長の頃は、 近畿畿内を”天下”と捉えていたよう で、 それで云うと、ある意味、天下布武の信長は、既に天下をとっていたんですね。
秀吉に先駆けて。