万里の長城はいつ誰が何のために作ったのか?蒙恬との関わりは?

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1987年に世界文化遺産に登録された「万里の長城」。その長さは6,000km以上ともいわれています。これはどのくらいすごいかというと、日本の国土の長さ(北海道~沖縄)が約3,000kmと言われていることからも明白ですよね。日本の長さの約2倍以上の長城が人の手で作られてるんですから。

 

さて、この万里の長城ですが、実態としていつ誰がどのように作ったのかご存知でしょうか??ちょいとまとめたいと思います。




 

そもそも何のため?


まず、なんで万里の長城なんて大変なものを建てたのか?です。だって、ちょー大変ですよ。この長さに長城を建てるというのは。

 

この問題を解くには、中国のどの時代においても時の支配者の「ある悩み」を知っておく必要があります。その悩みとは、ずばり「北方民族の存在」です。北方民族とは、今でいうモンゴルやシベリア付近を縄張りとしていた、騎馬狩猟民族のことです。このあたりは、地理的にめちゃくちゃ寒いです。しかも、食糧生産もままなりません。寒くて飢えるとどうしますか??

 

答えは簡単です。「食料があり暖かい南方へ移動する」です。

 

いつの時代も北の狩猟民族は暖かくて食料が豊富な中国を騎馬部隊で攻めていました。この騎馬民族は時代によって「匈奴」とか「女真族」とか「遼」などの国の名前は変わりますが、この北の民族が南の中国を攻めるというのは時代によって変化するものではありませんでした。

 

そこで、考え出されたのが「長城」でした。つまり、騎馬民族との国境線に作られた遮断壁こそが、万里の長城の正体だったんです。

 

では、いつ作られたのか?


と、するとですよ、次はこう考えるわけです。騎馬民族の侵入が始まったのは何も最近のことではありません。はるか昔から、中国は北方の騎馬民族の侵入が悩ましい種だったんです。なので、長城が作られたのは最近のことではないことは、容易に想像できますよね?

 

そう、なんと最初に長城が作られ始めたのはなんと紀元前なんです。時代としては、秦の始皇帝が中華を統一する前の、戦国七雄の時代です。戦国七雄の中でも、北方に国境線がある「秦」と「趙」、そして「燕」という国がそれぞれに騎馬民族の侵入を防ぐために長城を建設し始めました。

 

そして、この頃の長城は現存している万里の長城とは形や作られ方は全く異なります。そりゃ、当たり前ですよね。そんな技術ありません。この頃の長城は、主に粘土を固めて作られた高さ2m、幅3~5mの遮断壁であったと言われています。これが、初期の長城の形です。

 

蒙恬と長城の関係は?


先に述べた戦国七雄の時代が終わります。統一したのは戦国七雄の中の「秦」という国でした。ここに、秦の始皇帝が中華を統一するわけです。

 

しかし、中華を統一しても、北方の騎馬民族との闘いは終わりません。そこで、対騎馬民族征伐に抜擢された人物が「蒙恬」という将軍でした。キングダムにも登場しますよね。あの蒙恬です。

 

蒙恬は対匈奴戦で戦功を残し、長城をさらに強固なものとします。よく、「最初の長城を作ったのは蒙恬である!」みたいな話を聞きますが、そうではありません。長城というのは、その前から存在していました。それを、さらによく整備したのが蒙恬という位置づけが正しい理解です。

 

現存の長城は明代のもの


ちなみに、今までのお話は全て紀元前のお話です笑 驚くべきことですよね。その後も時代時代によって長城は作られ、壊され、補修されが続きます。

 

そして、今ある現存の万里の長城は明代(1368年 – 1644年)に修築されたものが主なものです。それ以降は騎馬の時代ではなくなり、火砲の時代へと戦方法も変化を遂げていきます。

 

ちなみにこの明代に修築された万里の長城は、初期の秦などが気づいた長城に比べて、だいぶ南方に作られています。それほど、騎馬民族の侵入が強烈だったかが伺える証跡ということでしょう。

 

今では修復にコンクリートが使われてしまい、そのずさんな修復方法に国内からも批判がでているとニュースでやっていましたが、一度は見てみたいものです。約2,000年以上の歴史を、この目で。




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