清泉寮ジャージーハットのソフトクリームを食べた人へ、清里開拓の父ポール・ラッシュに感謝を!

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ついに今年の夏も終わりましたね。以前は夏はただ暑くて早く涼しい秋が来ないかなー?くらいに思っていましたが、年々夏をいかに大事に楽しむかという方に考え方がシフトしてきました。1秒たりとも無駄な夏はありません。

 

といいつつも、私は蒸し暑いのが大の苦手なんです。幼い頃から炎天下の中でサッカーをやっていたので暑さは全然耐えられるのですが、日本の湿度の高い暑さはなかなかこたえます。ということで私が毎夏いくところは、ほぼ決まっています。それは、「高原」です!高原の夏は涼しく、また空気も澄んでいて日本の暑い夏でもめちゃくちゃ過ごしやすいんです。咳持ちの人も高原にくればよくなる人も多いですよ。私もそうでした。

 

さて今日は今年行ったいくつかの高原のうち、日本の代表的な避暑地の一つである山梨県北杜市にある「清里高原」をとりあげたいと思います。




 

清里といえば清泉寮のソフトクリーム


私は幼い頃から何度か清里にきていますが、清里の代名詞といえばなんといっても「清泉寮ジャージーハット」のソフトクリームです!

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もはや清里の代名詞

私はアイス通ですが、今まで食べた中で清泉寮ジャージーハットのソフトクリームが一番うまいです笑 このソフトクリームを食べるためだけに来る人も大勢います。また、ソフトクリームを食べながら見る風景が格別なんです!こちらです!どんっ!!

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目の前には富士山が

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さわやかな高原の風と共に

 

これ、めちゃくちゃ贅沢な時間です。富士山と2000メートル級の山々を見ながら極上のソフトクリームをいただく。しかも涼しいカラっとした高原の風と共に。白い柵がまたいけてますね。まるでアルプスにいるようです。あ、ちなみに清里も標高1000メートル以上あります。そして、このソフトクリームは極上素材のため、めちゃくちゃ溶けるのが早いです。優雅な時間・・・・と思ってゆっくり食べていると悲惨なことになりますのでご注意ください。プロは一滴もこぼさず食べるのです。

 

ちなみに、清泉寮はなにもソフトクリームだけではなく宿泊施設や牧場なども完備されています。

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清里の父、ポールラッシュ博士とは


このままだとただ清里で夏を満喫した記事になってしまうので、歴史路線へ。ぜひ、清里へ来た方もしくはこれから行く方は絶対に覚えましょう。その名も「ポール・ラッシュ博士」です。清泉寮の中にも銅像が建っています。このポール・ラッシュは「清里開拓の父」といわれている人です。しかも、日本にめちゃくちゃ貢献してくれた人なんです。そんなポール・ラッシュと清里のつながりをご紹介します。日本人なら知っておくべき人です。まじで。

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ポール・ラッシュは1887年アメリカで生まれ、1925年に日本に牧師として初来日します。さて、1925年の3年前、日本に大事件がおきました。そう、「関東大震災」です。ポール・ラッシュは関東大震災でキリスト教青年会の拠点を建て直すために来日しました。日本に来たポール・ラッシュは衝撃を受けます。ポール・ラッシュの眼前にはあまりにも貧困な日本の農民の姿が広がっていました・・・彼はアメリカのケンタッキー州で育ったため、アメリカの農民の姿とあまりにかけ離れた日本のそれを見て心からショックを受けたといいます。

 

日本の農作物の中心はなんといっても「米」です。また、米というのは高原などの寒暖差の激しい高冷地では育成に向いてなく、特に高原にいる農民の貧困が際立っていました。そこで、ポール・ラッシュは今の清里の地でアメリカ式の酪農・高冷地に適した野菜などの栽培の普及に努めました。少しでも震災後の日本の農民を元気にまた暮らしを良くしようという想いからきたものでした。これを、日本人ではなくアメリカ人がやってくれたんですよ?すごいとおもいませんか??

 

また、この清里開拓者の中には小河内ダム(奥多摩)の建設のために土地を追われたの小河内村の人々もいました。小河内ダムによってできたのが「奥多摩湖」です。奥多摩湖・小河内ダム・清里高原はつながっているんです。

 

ここまできてもう分かりましたよね。「清泉寮とはポール・ラッシュが清里開拓・酪農普及を行った中心地」なんです。清泉寮の敷地内には「キープ協会」「キープ」という言葉がよくでてきますが、これは彼が設立した協会です。目的はもちろん、「高冷地農業の実験・普及」です。「Kiyosato Educational Experiment Project」ですね。はい、泣けます。

 

また、彼は立教大学でも教鞭を振るうと共に、日本のアメリカンフットボールの普及にも努めた人物でもあるんです。なので彼は「日本のアメリカンフットボールの父」とも呼ばれています。

 

第二次世界大戦勃発とその後


1941年、太平洋戦争が勃発します。日本はアメリカと戦うこととなり、アメリカは敵国となりました。太平洋戦争が勃発してもポール・ラッシュは日本に残留することを熱望しましたが、アメリカが敵国ということでポール・ラッシュは外国人抑留施設に入れられた後、アメリカに強制送還させられてしまいます。ここまで日本につくしてくれた人にそんな仕打ち、ありますか?ポール・ラッシュの無念さも相当たるものだったでしょう。いつの世も戦争は不条理の極みです。しかし、人間がいる限り無くなりません。それは条理です。

 

その後、第二次世界大戦は終戦。日本の敗戦で幕を閉じます。ポール・ラッシュは終戦の年の1945年に再来日します。日本に滞在していた功績を買われ、アメリカ軍として日本の戦犯リストの作成等の情報活動を1949年の退役まで行います。

 

そして1979年、東京都中央区の国際聖路加病院でその人生に幕を閉じます。82歳のことでした。その遺骨はもちろん、清里にある「清里聖アンデレ教会納骨堂」に安置されています。

 

ポール・ラッシュは今もなお、清里を見守り続けています。清里はソフトクリームだけじゃありません。ポール・ラッシュがいたからこそ、ソフトクリームがこうやって食べられるんです。清里の清泉寮にきてソフトクリームを食べたら、清泉寮内にあるポール・ラッシュ像に心の中でも良いので手を合わせてあげてください。「ありがとう」と。

 

もう一度言います。ポール・ラッシュは今もなお、清里を見守り続けています。本当の歴史はこういうことを言います。




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