なぜ葵の御紋が?安倍川餅の由来と徳川家康の関係について解説

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静岡県にある「羽衣伝説」の舞台でもある「美保の松原」にいってまいりました!美保の松原といえば「富士山世界文化遺産の構成資産」にも登録されており、海と松と富士山という、なんとも日本らしい風景が有名ですよね。私が行った時も雲ひとつ無い快晴で素晴らしい富士山をパシャリすることができました。私は普段山梨側から富士山を見ているのですが、静岡側からもまた異なる顔をもっていて良いですね。

 

さてその道中、面白いものを発見しました。その名も「安部川餅」!!もちろん、「安倍川餅は静岡の名物であり、安倍川にちなんでその名がついている」という基礎知識は知っていたのですが・・・・なんとそことある面白いものを見つけました。今回は、そのお話です。




目に飛び込んできたのは「葵の御紋」


それがこちらです、どどんっ!!

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徳川家の家紋「三つ葉葵」

お分かりいただけただろうか・・・・そうです。将軍家である徳川家の「三つ葉葵」の家紋があるではありませんか!それを見た瞬間に、「ははーん、そういうことか」とアハ体験的なものが脳内でおきました。

 

では、いったいぜんたい「安倍川餅」と「徳川家(ここでは徳川家康とします)」の関係はなんなんでしょうか?解説したいと思います。

 

静岡という地理に注目


現在の静岡は徳川家康の時代、二つの国で構成されていました。それが「遠江(とうとうみ)」「駿河(するが)」です。そして、家康は「岡崎(現愛知県)」で生まれました。「岡崎城」でも有名ですよね。この二つの事象は一見すると関係ないように見えますが、家康の幼少期は江戸時代の彼からは想像できないほど、家康の家(松平家)は弱かったんです。

 

そのため、家康は幼い頃から「人質」生活でした。そして、その「人質時代」をすごしたのが「駿河」なんです。駿河は当時、「今川義元」が治めており、家康は今川家の人質でした。「桶狭間の戦い」「織田信長」に敗れたことでも有名ですよね。

 

あとはみなさんが知っている日本史の通り、今川義元亡き後に徳川家康は独立し、織田信長同盟時代-豊臣秀吉時代を経て、ついに天下をとるにいたります。では、このことと安倍川餅の家紋とどういう関係があるのでしょうか??




 

家康の終の棲家


家康といえば「江戸城」というイメージという方が多いと思いますが、家康は隠居後、終の棲家に選んだのは「駿河」だったんです。はい、「駿府城」です。人質時代とはいえ、家康の幼き頃見た原風景が駿河だったのかもしれません。

もしかしたら、この素晴らしき美保の松原もまた、家康の原風景の一つだったかもしれません。そんな感慨にひたりつつ、私は美保の松原を見ていたわけですが、いかんいかん話を戻します。

 

安倍川餅の由来


そんなこんなで、家康は隠居後、駿河で過ごしていたわけです。そして家康がある時、安倍川岸の茶店に立ち寄った際に、そこの店主が「黄な粉を安倍川上流で取れる砂金に見立てて餅にまぶし、『安倍川の金な粉餅』として出したのがこの「安倍川餅」なんです。それを食べた家康は喜んで食べたそうです。そこから、家康のお墨付きを得て、「安倍川餅」と名づけたんです。これが、安倍川餅の誕生秘話です。

 

もちろん、その場で買って家でおいしく食べたことはいうまでもありません。ぜひみなさんも、駿河方面に出向いた際は家康を感じつつ安倍川餅を食してみてください。歴史とうまさでお腹一杯です。




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