織田信長の家臣、黒人武士の弥助とはどんな人物だったのか?

 

「織田信長」といえばどんなイメージでしょうか??信長は「うつけ」だとか「第六天魔王」とかとんでもあだ名をつけられたことでも有名ですが、その裏には従来の型や習慣に囚われない発想や考えを受け入れ、革新的な行動を常に行ってきたからだとも言えます。比叡山の焼き討ちや大量の鉄砲導入、南蛮の甲冑や服などを身に着けていたことからもその様子がうかがえます。

 

ですが、これはあまり知られていない事実ですが、実は信長には黒人の家臣がいたことをご存知でしょうか?その名も「弥助」といいます。そんな、信長の黒人家臣である弥助はどんな人物だったのか?ご紹介します。




 

弥助と信長の出会い


信長はキリスト教の宣教師を保護し、南蛮渡来のものに興味を持っていたことでも有名です。そのため、宣教師が多く信長の元を訪れていました。そのイタリア人宣教師の一人に「ヴァリニャーノ」という人物がいるのですが、そのヴァリニャーノが信長の元に一人の黒人奴隷を連れてきます。

 

当時、島国の日本ではただでさえ外国人が珍しいのに、見たことのない黒人が目の前に現れて信長は非常に驚きます。なんと、肌が黒いのは何か塗りたくってるからだと考え、「何か塗っているな、洗い流してみろ!」という始末でした。ですが、洗い流しても色が落ちはしません。興味を持った信長はたいそうこの黒人奴隷を気に入り、ついにはヴァリニャーノに対し「この黒人奴隷を儂にくれ!」と交渉し、ヴァリニャーノは信長の負けん気に折れ、黒人奴隷を信長へ受け渡します。

 

この黒人奴隷は当時ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)から連れて来られその名も「ヤスフェ」といい、それを聞いた信長が「弥助」と名付けたとも言われています。

 

これが信長と弥助の出会いです。1581年3月27日のことでした。新しいものに興味を持つ信長らしいですね、家来にしてしまうとは。

 

弥助はどんな人物だったのか?


「信長公記」という言ってみれば信長の記録書には弥助の特徴が以下のようにかかれています。

  • 黒坊主
  • 年齢は26歳~27歳ほど
  • 牛のように黒き身体
  • 十人力の剛力

また、身長は180cmを超えていたそうです。戦国時代の武士の平均身長が約150cm程と言われていますから、その差30cm。今でいう、身長170cmの人が2mの人を見るようなもんです。まさに、バレー選手並みですね、この身長差は。

 

信長は弥助をたいそう気に入っていたと言われ、好待遇で接していたようです。弥助は信長の従者として働きはじめますが、弥助からしたら奴隷生活から一変して、ちゃんと衣食住を与えられ、人として接してくれる信長にさぞ喜んでいたことでしょう。

 

信長の死後、歴史から姿を消す


そして、信長にとって悲痛な事件が起きます。そう、「本能寺の変」です。家臣である「明智光秀」に裏切られた信長は、本能寺の変で自害します。そんな本能寺の変の折にも、弥助は信長のそばにいたといいます。信長の自害後、弥助は本能寺から抜け出し、信長の嫡男である「織田信忠」がいた「二条城」へ向かったとされています。結果的に、信忠もここで死んでしまうのですが、弥助は信長を助けられなかった代わりに、信忠を助けようとしたのでしょう。なぜならば、そのまま本能寺から逃げ出すことを選ばす、二条城へ向かったのですから。

 

信忠自害後、光秀に捕縛されますが、光秀は「異国人だから切らん」と言い放ち、弥助を「南蛮寺」に移送します。これは、光秀なりの優しさであったり、本当に人として見ていなかったなど言われていますが、今となっては真偽のほどは分かりません。

 

その後の弥助については、故郷のモザンビークに帰ったとも、九州の「有馬家」に仕えあの有名な「沖田畷の戦い」に参加したともいわれていますが、信長公記ほどしっかりした記録が残っていないため、よく分かっていません。

 

しかしながら、信長の家臣に「弥助」という黒人武士がいたのは確かです。まさに、信長の型にはまらない思想ゆえと言えるでしょう。あまり知られていない、信長のお話です。




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