なぜこんなところに?分倍河原駅前にある新田義貞像についてその理由を解説

 

JR南武線に「分倍河原」という駅があるのですが、その分倍河原駅の小さなロータリーに立派な像が建っています。それが、こちら。

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これは「新田義貞」といい、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物なんです。特に「太平記」をはじめとする南北朝動乱の時代の書物に足利尊氏と並んで名前が度々でる人物なのですが、言い方は悪いですがこの分倍河原駅というのはそれほど有名な駅でも大きな駅でもありません。なぜ、分倍河原駅に立派な新田義貞像が建てられているのか?その理由を解説したいと思います。




 

新田義貞の基礎知識


新田義貞は本名を「源義貞」といい、源氏の武士です。新田氏の基盤は上野源氏なので今で言う群馬県を中心に勢力をもっていました。また、新田義貞のご先祖様に「源義国」という人物がいるのですが、この義国の長男の家系が「新田氏」、次男の家系が「足利氏」となりました。なので、新田義貞はこの時代の足利氏である「足利尊氏」とは同族の関係でした。

 

新田義貞の時代においては源氏の棟梁は足利尊氏でしたが、新田義貞は足利尊氏と家系も近いため、それに準じる家柄と認識されていました。鎌倉時代の後期に生まれた新田義貞、ここでのキーワードは「鎌倉時代」・「上野(こうづけ)」・「足利尊氏」の3つです。

 

少しずつ、新田義貞と分倍河原の関係に近づいていきますよ。

 

いざ鎌倉!


この鎌倉時代の後期というのは、平氏である北条家の天下でした。その、北条家支配に対して諸国で反対勢力が根付き始めます。その中心となったのが「後醍醐天皇」です。つまり、朝廷勢力ですね。朝廷は全国に「鎌倉幕府倒幕」を呼びかけ始めます。それに最初に呼応したのが畿内の「楠木正成」「赤松円心」をはじめとする「悪党」と呼ばれる勢力でした。

 

それに対して鎌倉幕府は反対勢力を倒すべく、関東から大軍を京都へ派兵します。その中の一人が「足利尊氏」でした。足利尊氏は反対勢力の討伐軍にいながら、京都に入ると反対勢力へ加勢し、鎌倉幕府の京都出先機関である「六波羅探題」を落とします。それが、畿内のお話です。自らの野望が強かったとか平氏の世界から源氏の世界へと戻したかったとかいろいろな考えられ方がありますが、足利尊氏は源氏の棟梁です。その影響力はすさまじいものがありました。

 

一方関東でも鎌倉幕府倒幕の動きがでてきます。それが「新田義貞の挙兵」です。1333年のことでした。ここから、新田義貞のストーリーとなります。鎌倉幕府はもちろん鎌倉にあります。そう、新田義貞は一路鎌倉を目指します。

 

小手指原、久米川・・・そして分倍河原!


上野(今で言う群馬県)で挙兵した新田義貞は各地の反幕府勢力や甲斐源氏・信濃源氏の勢力を吸収しながら鎌倉に向けて南下していきます。「鎌倉街道」を南下していく新田軍はついに「入間川」にまで達します。しかし、ここで幕府側の防衛線が張られており、ここで新田軍と幕府軍の戦いが起きます。それが、「小手指原の戦い」です。今で言うところの小手指ですね。しかし、新田軍の勢いはすさまじく、1日で防衛線を破り、翌日には「久米川の戦い」で久米川の防衛線も突破します。

 

「入間川防衛線」を突破された幕府軍は、最期の防衛線である「多摩川防衛線」まで下がります。そう、多摩川防衛線で起きた新田軍対幕府軍の戦いこそが「分倍河原の戦い」だったんです。そして後は簡単です。かなりはしょりますが、この最期の防衛線である分倍河原を突破した新田義貞は、「稲村ガ崎」から鎌倉へ突入。鎌倉幕府を落とし、ここに鎌倉幕府は消滅しました。

 

なので、この分倍河原の戦いというのは、鎌倉幕府側にとっては最期の防衛線であり、新田義貞にとってはここさえ落とせばあとは鎌倉へ突き進むのみ!という両者にとっての運命の分岐点のようなものでした。そのため、この重要な地に新田義貞像が建立されているんです。

 

ちなみに、この分倍河原の戦いをはじめとしたいわゆる武蔵国合戦において国分寺が焼失し、今では「国分寺駅」という名前だけが残っているわけです。そして、この分倍河原にある新田義貞像はある方向を向いています。それが、「鎌倉の方角」です。この記事を読んでいただいた方は、その理由は明白ですよね。今もなお、新田義貞像は鎌倉を向き続けています。




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