種子島銃(火縄銃)の輸入値段と、八板金兵衛が量産にあたりぶちあたった壁とは?
火縄銃こと種子島銃が日本の到来したのは、1543年の戦国時代真っ只中のことでした。
そこで素朴な疑問です。
この火縄銃をポルトガル人から買い取った人物は、薩摩(今で言う鹿児島県)島津家家臣であり、種子島の島主でもあった「種子島時堯」という人物です。
なんですが、種子島時堯はいったいいくらでポルトガル人から火縄銃を買い取ったのでしょうか??見ていきたいと思います。
話はそれますが、島津の家紋である「十字」紋。いいですよね、そそられます笑
<参考記事>
火縄銃二丁の値段はなんと・・・・・・
種子島時堯はポルトガル人から火縄銃を二丁購入します。
火縄銃の実演を目にし、種子島時堯は火縄銃の購入を決めることとなりますが、驚くべきはその値段です。
なっ、なんと・・・・2000両!!!!!
んっ??高いのか安いのか分からん??まぁそうですよね、今では両払いする人は皆無ですからね。では、換算してみましょう。
戦国時代は通貨価値が不安定だったので、目安として江戸時代の両価値で換算してみましょう。
<江戸時代の両換算>
- 1両=約13万
- 2000両=26000万=2.6億円
そう、2.6億円です。・・・・って高っ!!!!もちろん、これは江戸時代通貨での換算なので、必ずしもこんな高いかは不明ですが、商売の原理として、火縄銃は日本に当時存在しなかったので、売る側はいくらでも高い値段をふっかけることができます。なので、これくらい高い値段を提示すること自体は不思議ではありません。
しかし、種子島時堯がいかに種子島の島主であったとしても、これだけの大金をもっていたとは到底おもえません。これは、島津家の財政出動があったのでしょう。
ですが、一番の賞賛をしたいのは、種子島時堯と島津家の先見の明です。これほどの大金をもってしても未知の金属筒を二丁買うんですから。これはこの火縄銃こそが戦のスタイルを変え、歴史を塗り替えるものだと判断したからでしょう。しかもその実は、この火縄銃到来から約50年で戦国時代は終焉を迎えることとなるわけですから。
種子島銃量産の大いなる壁とは?
種子島時堯はさっそく、火縄銃こと種子島銃の量産をはじめます。
種子島時堯が種子島銃量産を命じたのは、刀鍛冶であった「八板金兵衛」という人物でした。
八板金兵衛はすぐさま、種子島銃の製作にかかるわけですが、ここで大いなる壁にぶちあたります。それは、「とある部品の存在」でした。これ、分かりますか??
鉄砲に必要な材料は簡単にいってしまえば「鉄」と「木材」ですが、この二つは日本でも精製することができます。木はどこにでもありますし、そもそも鉄は日本刀つくってるんですから、得意分野です。
問題は、その鉄と木材の結合をどうやるか??ということでした。そう、答えは「ネジ」です。ネジは日本に当時存在しませんでした。
これには八板金兵衛もお手上げでした。
ですが、このネジがなきゃ種子島銃は作れません。そこで、八板金兵衛は身を削る一計を案じます。
それは、「娘をポルトガル人に嫁がせて、その製造法を取得する」というなんとも時代を感じさせる発想でした。しかし、当時はそれしか方法がなかったんでしょう。また、製造法を教えてもらうにあたって莫大な金額をふっかけられることは十分に考えられますし。
そして、八板金兵衛は愛娘の「若狭(種子島なのに若狭というツッコミはやめておきましょうw)」をポルトガル人の元で嫁がせ、ネジ製造法を習得します。そして、ついに種子島銃の量産に成功するわけです。
そして、日本は戦国時代末期には、なんと世界でトップクラスの鉄砲保有国へと転身します。その影には種子島時堯と八板金兵衛、そして島津家の涙ぐましい努力と先見の明があってこそなのだと思わざるをえません。どんなものでも、その影から支える存在のことを忘れないようにしたいものです。