あの手塚治虫の先祖である武将、手塚光盛とはどんな人物か?

火の鳥やブラックジャック、ジャングル大帝など数々の名作漫画を世に送り出した天才「手塚治虫」。私が最も好きな漫画家の一人であり、中でも火の鳥はもはや森羅万象を形作った倫理書・歴史大書ともいえます。

 

そんな手塚治虫には、実はとある有名な先祖がいることで有名なんです。彼の漫画の中にも何回登場するんですよ。まさにユーモアです。本日はそのご先祖様についてのお話です。




 

その名も手塚光盛


その人物の名は平安時代末期の武将で「手塚光盛」といいます。通称、手塚太郎光盛ともいいますが、実はなかなかに有名な人物なんですよ。

 

平安時代の末期というと、まさに源平合戦です。平氏と源氏が争っている時代ですね。最終的には源頼朝・義経兄弟が平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼし、鎌倉幕府を開くこととなりますが、その過程では血みどろな平氏と源氏の戦いが繰り広げられていました。

 

では、そのどろどろした源平合戦の時代に、手塚光盛はどんな時代の関わり方をしたのか見ていきましょう。

 

あの木曽義仲の麾下に


この手塚光盛は信濃(今でいう長野県)の諏訪あたりで力をもっていた豪族です。はい、この源平合戦の時代に信濃で有名な源氏といえばあの人しかいません。そう、「源義仲」です。「木曽義仲」という名前の方が有名ですかね。名前の通り、信濃の木曽を地盤に平氏に対して挙兵した源氏の雄です。

 

そう、手塚光盛は木曽義仲の挙兵に応じ、木曽軍の麾下となります。その中で1183年の「篠原の戦い」という合戦において、手塚光盛は平家方の老将である「斎藤実盛」を討ち取る功績を得ています。これは「平家物語」にも描かれている名シーンなんです。

 

忠実な武将の最期


木曽義仲はその後破竹の勢いで平家を倒していき、一時は京都を奪回します。しかし、木曽兵は京都でも略奪や横暴を働き、京都の治安維持に失敗。そして、義仲の後に上京しようとしていた源頼朝を同じ源氏ながら敵視し、頼朝と交戦体制に入ります。

 

源氏の棟梁である源頼朝の勢いは田舎源氏の木曽義仲の比ではありませんでした。最期は「粟津の戦い」で頼朝勢にやぶれ、討ち死にします。1184年のことでした。木曽軍が劣勢になる中、次々と側近の兵や武将達が木曽軍から離反していきますが、手塚光盛は違いました。

 

彼は勇敢に頼朝勢と戦い、木曽義仲と共に討ち死にする道を選びました。最後まで義仲に従った四騎の内の一人であったといいます。

ちなみに、漫画火の鳥の乱世偏では、この粟津の戦いもちゃんと描かれていて、そこになんと手塚光盛が登場します。しかも、彼の姿は手塚治虫が自らを描く時と全く同じ姿。大きい鼻に平安時代ではありえない眼鏡までかけています。乱世編ではその他にも平家物語の名シーンが詰め込まれてるので、源平合戦を知りたい人はぜひおすすめですよ。




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