半蔵門の名前の由来はあの有名忍者、服部半蔵にあった!?

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皇居には各方面からの入口が存在します。大手門なんかが代表例ですよね。大手というのはいわゆる正門のことを意味します。つまり、正玄関口みたいなもんですね。一方、大手門の逆側の入り口は「搦手(からめて)」と言います。そこにある入口のことを搦手門なんて表現したりします。

さて、皇居にも搦手門が存在します。その名も「半蔵門」です。一度は聞いことありますよね?しかしこの半蔵門ってやたらユニークな名前だと思いませんか??大手門は普通に大手なのに、搦手には半蔵門ってついてるんです。これは歴史界では有名ですが、わけがあるんです。




 

かの有名な服部半蔵とは


忍者ハットリ君じゃありません。いや、忍者というのは半分正解なんですが、忍者ハットリ君ではなく、「服部半蔵」って、一度は聞いたことないでしょうか??時代は戦国時代、徳川家康の頃までさかのぼります。

服部半蔵とは、実は通称です。徳川家康に仕えていたのは、服部正成とその子、服部正就で代々「半蔵」の名をついでいました。しかし、徳川家康の伊賀越えなど、世の中の服部半蔵のイメージは服部正成のものです。徳川十六神将の中に入っているのも、服部正成の方ですしね。なのでここでは、服部正成を服部半蔵と呼ぶことにします。

 

服部半蔵への信用


服部半蔵は徳川家康からの厚い信頼を受けていました。身の回りの警護や情報収集等を服部半蔵配下の伊賀衆に任せたりもしていたわけですが、下剋上のこの時代、身の回りの警護を受け持つというのは、高い信用がなければとてもじゃありませんが、まかせることなどできなかった時代です。

なんといっても、自分の家臣である明智光秀に討たれた織田信長を見ているわけですからね。それだけ、服部半蔵に信頼を寄せていた証でもあります。

 

服部半蔵が守る門


今の皇居は、江戸時代は江戸城と呼ばれており、徳川将軍の城でした。もちろん、徳川家康も江戸城に入城しています。その江戸城の搦手を守備していたのがそう、服部半蔵でした。

搦手は城の弱点とも呼ばれます。その搦手門の守りを任されていたというのも、徳川家康の服部半蔵への厚い信頼が感じられますよね。そして、この通称半蔵門からは、当時から甲州街道が伸びており、甲府までつながる大動脈でもありました。これは、緊急時の脱出経路としても考えられています。と、同時に裏の正門とも呼ばれています。なんせ、甲州街道の出発地点でもありますからね。

みなさんも半蔵門を見るときは、ぜひ服部半蔵のことを思い出してみてください。




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