新発田重家の反乱拠点となった新発田城は、明治時代まで続く下越の名城だった

 

新潟に行ってまいりました。目的は温泉だったんですが、新潟といえば越後!越後といえばなんたって「長尾景虎」こと「上杉謙信」でしょう。そんな歴史大国である越後に行って、温泉だけにつかって帰ってことはできません。

 

ということで行ってまいりました、「新発田城」!新発田城はその名のとおり新発田市にある城で、位置的には下越に位置します。新潟の中でかなり山形と福島よりですね。

そんな新発田城、「新発田氏」の歴史はある程度知っていたんですが、なかなか目新しい発見があったのでご紹介します。

 

新発田城は新発田氏のストーリーから始まる


新発田城はその名の通り、「新発田氏」という武家の居城でした。その歴史は古く、鎌倉幕府設立に戦功のあった「佐々木盛綱」という佐々木氏の流れを汲むのが「新発田氏」なんです。その頃から新発田氏は新発田城を居城としていました。詳しい築城年は分かっていませんが、ここでは「新発田氏の居城=新発田城」と思ってください。

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堀の外は城址公園となっている

その後、新発田氏の名前が歴史に出てくるのが「戦国時代」です。先述しましたが、越後といえばやはり上杉謙信です。新発田氏も上杉謙信に従い、関東各地を転戦します。その中でも新発田氏は武勇の誉れが高く、上杉家中でも有力な戦闘集団でした。

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春には桜の名所と成る

しかし、新発田氏の運命は「上杉謙信の死後」じょじょに歴史から逸脱していく方向に向います。上杉謙信という強力な国主を失った越後は大混乱をきたします。簡単にいうと「誰が謙信の後を継ぐか」という相続争いが発生するわけですが、それを世に「御館の乱」と言います。この御館の乱では、大河ドラマ真田丸にも登場した「上杉景勝」と「上杉影虎」という二人が互いの存続を欠けて、相続争いのためにドンパチやることになります。この騒乱の中、新発田氏は上杉景勝陣営に味方することとなります。当時の新発田家当主は「新発田重家」といって、彼も武勇の誉れが高い人物でした。戦国時代に詳しい人なら一度は聞いたことがあるでしょう。

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新発田城址公園。古木が残る

そして、御館の乱は上杉景勝の勝利をもって幕を閉じます。しかし、上杉景勝に味方した新発田重家は、その味方したことによる恩賞を不服に思い、なんと「反乱」を起こしてしまうんです。時に1581年のことでした。その時、重家が新発田城の防御や新潟津確保のための拠点として作ったのが「新潟城」です。反乱は簡単につぶれると思いきや、上杉家勢力減退を狙っていた「伊達輝宗(伊達政宗のお父さんです)」が新発田重家を支援していたこともあり、なんと新発田城が上杉景勝の手によって陥落する1587年まで持ちこたえますが最期は力尽き、ここに新発田氏は滅亡することとなります。




 

江戸時代からは溝口氏にバトンタッチ


江戸時代になり藩政が敷かれると、新発田城は新発田藩の拠点となります。新発田藩初代藩主は「織田信長」の重臣である「丹羽長秀」の部下であった「溝口秀勝」という人物です。溝口氏はそれ以降、明治時代が始まるまで新発田藩主を歴任することとなります。

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大手門と溝口氏の家紋である「溝口菱」

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石垣は隙間無く積み上げられている

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門を入ったところにある溝口秀勝像

大手門を入ると順路が設けられており散策することはできますが、そんなに広くはありません。城のとなりは陸上自衛隊の敷地となっており、そこにほとんどスペースをさかれているため、場内のほとんどはそれに占められています。

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櫓は資料館となっている

ちなみに、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の「堀部安兵衛」は新発田藩出身です。そのため、彼の銅像も建立されています。「忠臣蔵を大河ドラマへ!」と宣伝されてましたが、ストーリーの長さ的に難しいと思います。。。2時間の枠で終了する作品が多いですからね、忠臣蔵は。

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越後は山城はその地形から山城が多いんですが、この新発田城はその中でもなかなかの規模の平城です。新潟港にも近く、交通の要所だった新発田城は戦国時代を過ぎ、平和な江戸時代になってからも重要な拠点であり続けました。近くに立ち寄った際は、ぜひ訪れてみてください。




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