津軽地方が生んだ智将、津軽為信とはどんな人物か?偶然ワ・ラッセで出会った話

青森の名湯、「酸ヶ湯温泉」の帰り、青森駅で次の電車までの時間の合間に青森市の観光施設である「ねぶたの家 ワ・ラッセ」に寄りました。この「ワ・ラッセ」では主に青森ねぶたの保存・継承を目的とした建てられた総合観光施設なんですが、そこで面白いものに出会ってしまいました。それが、こちらです!じゃじゃん!!

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いやぁ、見事な作品ですよね。そして、注目して欲しいのが、「お題目」です、なんて書いてあるか分かりますか?そう、「津軽為信 六羽川の戦い」と書いてあるではありませんか!!

 

いや~出会ってしまいました、「津軽為信(つがるためのぶ)」津軽地方の超有名人なのですが、まさか青森駅近辺で出えるとは思わなんだでした。何度もこのサイトで書いていますが、こういうたまたまの歴史との出会いが最高に嬉しいものなんです、歴史家としては。

 

今後青森を訪れる人のために、ぜひ津軽為信を知っておいてほしいので、ご紹介します!




津軽為信のここをおさえよう


津軽為信は1550年という戦国時代のど真ん中に、名前の通り「津軽地方」で生まれました。津軽為信、もともとは「大浦為信」という名前なので、ここからは「大浦為信」と呼びます。

 

青森といえば、言わずとしれた「南部王国」です。南部氏の勢力はすさまじく、青森から岩手・秋田の一部までを支配していました。この頃の南部家当主は「南部晴政」です。南部家24代当主ですね。南部晴政は南部家の最盛期を築いた人物で、その勢力の広さから「三日月の 丸くなるまで 南部領」とまで言われていました。

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南部氏勢力図

もちろん、この頃の津軽地方も南部家の勢力下であり、この「大浦為信」「南部氏の氏族」とも言われています。ここまでが、大浦為信と南部との関係です、しっかりとおさえておきましょう。南部氏については、下記記事もご参考にしてみてください。

<参考記事>




徐々に牙を見せ始める、為信


ところがこの大浦為信、家督を継いで大浦城主となってから徐々に隠していた牙を見せ始めます。この大浦為信は非常に権謀術数に優れており、「正々堂々と戦う」というよりは「いかに賢く、楽に勝つか」という思考の持ち主でした。そのため、多くの血を流すことなく、津軽地方の近隣の城を攻め落としていきます。南部氏からしたら、自勢力下におけるこのような行為はたまったもんではありません。

 

このような大浦為信の横暴に対して、危機感や怒りをあらわにした周辺大名や豪族が大浦為信を懲らしめようと攻めてきます。そこで発生したのが「六羽川の戦い」なんです。

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六羽川の戦い

この戦いは、序盤こそ大浦為信は苦戦しましたが、最終的には大浦為信の勝利で終了し、津軽地方の大浦為信支配が一層強くなりました。

 

大浦為信、時代を読む


大浦為信のいた津軽地方は、本州の最北端に位置します。インターネットも無い時代では、「情報」がより重要となりますが、本州の最北端である津軽は最も情報伝達が遅い場所でもありました。しかしながら、情報の重要さに気付いていた大浦為信は、その時の最新情報を素早く仕入れ、いかにしたら自身が有利になるのか?を考え行動する人物でした。

 

この時の天下は「豊臣秀吉」であったため、いち早く豊臣秀吉に取り入り、津軽地方の本領安堵に成功。この頃から「大浦為信」ではなく、「津軽為信」と名乗るようになります。

 

秀吉の死後は徳川家康方に接近し、「初代陸奥弘前藩の藩主」となります。ちなみに、「弘前城」をつくったのも津軽為信なんです。ここぞと言うときは最小の力で最大の利を上げ、時代を読むことで自身の安全と未来を確保した津軽が生んだ智将、それが「津軽為信」なんです。

 

ワ・ラッセで津軽為信ねぶたと出会った瞬間の感動は、以上のような背景のある人物に出会えたとろからでてきたことが、お分かりになっていただけたでしょうか?笑

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ワ・ラッセ

いつまでワ・ラッセで津軽為信ねぶたが飾ってあるか分かりませんが、この施設は他にも多くのねぶたが展示されているので、行く価値ありですよ。このような代わった外環をしています。もちろん、お土産もうってますよ。青森駅から徒歩3分くらいで、目立つのですぐ分かります。ぜひ、ご覧ください!




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