松本を街歩きしたら、松本城が深志城であったことが感じられた話

「松本城」といえば、言わずと知れた名城ですよね。あの黒塗りの天守は国宝にも指定されています。日本で国宝に指定された天守は5つしかないんですよ。

<国宝5天守>

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国宝:松本城天守

そんな長野県松本市にある松本城、実はもともと「深志城」という城だったのをご存知でしょうか?「松本」というのは後からつけられた地名なんです。松本を街歩きしていたら、その「深志」だったと感じられる形跡を見つけたので、ご紹介します!




 

まずは、小笠原氏をおさえよう!


古来より、信濃(長野県)は「小笠原氏」という源氏の流れをくむ豪族が治めていました。この小笠原氏の祖が「小笠原長清」という人物で、長清の兄である「加賀美遠光」が源頼朝より信濃を平家打倒の褒美として与えられ、それを弟である小笠原長清が引き継いだ、というわけです。ちなみに、小笠原長清の弟が名門南部氏の祖である「南部光行」なんです。

 

つまり、小笠原氏というのは源氏の名門であり、鎌倉時代から続く名家なんです。甲斐の名門、「武田氏」の遠戚にもあたります。同じく、源氏の名門です。武田も小笠原も南部も・・・全部親戚みたいなものです。

 

この小笠原氏の信濃における本拠地は「林城」といい、林城をとりまくようにして建てられた支城の一つが「深志城」というわけだったんです。では、深志城と松本城はどんな関係なんでしょうか?深堀していきましょう。

 

武田信玄に攻められ・・・・


時は戦国時代まで進みます。甲斐の虎である「武田信玄」がついに信濃にまで触手を伸ばしはじめ、当時の小笠原家当主である「小笠原長時」は為す術もなく敗退し、信濃は武田信玄のものとなります。

 

そのとき、武田信玄は小笠原氏の本城であった林城を破却し、深志城を信濃の中心とします。このとき、深志城に武田信玄の城代として入ったのが、武田四天王でもある「馬場信房」です。

 

その後、武田信玄の息子である「武田勝頼」の時代に「織田信長」に攻められ、武田家は滅亡します。さらに、織田信長が「本能寺の変」で倒れた混乱の最中、徳川家康の配下となっていた、当時の小笠原家当主である「小笠原貞慶」が深志城に入り、小笠原氏が旧領をついに復活します。




深志→松本へ改名!


この、小笠原貞慶が深志へ戻ってきたときに、「深志→松本」へと改名しているんです。一説には小笠原貞慶が旧領の復活を「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述べたことから、その「待つ」「本懐」の字を取り、「松本」となったと言われています。もともと信濃は先述の通り小笠原氏の領地でしたからね。

 

そのため、私の中では松本城ではなく、深志城のイメージが強いんです。松本城はまだ実は感覚的にピンと来ていません。そんな中、松本市内をブラリ街歩きをしていたら、こんな看板が・・・・こちらです!どんっ!!

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深志の名が!

 

いやぁ・・・・これには感動しました!松本城のすぐ近くの信号なんですが、思わず足を止めて写真をぱしゃり!おそらく、周りの人からは「何撮ってるの、あの人?」状態でしたが、これぞ松本の原点ですよ、松本の皆さん!!!これには感動しました!まだ、深志の名は残っているんですね、やはり!

 

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ここにも深志が!

そして、ここにも深志が!これは松本駅前の湧水なんですが、「松本の湧水」ではなく、「深志の湧水」と書かれていることが粋な計らいですよね。

 

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松本城天守

 

その後、深志城の思いを馳せながら素晴らしき松本城を見学しにいったことは言うに及びません。松本を街歩きする方はぜひ、松本にある深志を見つけてみてください。




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