「会津若松城」はなぜ「鶴ヶ城」と呼ばれるのか?を簡単に解説

前回からの会津シリーズです。こう見ると、改めて会津は歴史の宝庫ですね、記事ネタがごろごろ転がっています。さて会津で絶対に外せないのはなんといっても「鶴ヶ城」です!「日本百名城」でもある白塗りの鶴ヶ城は紛れもなく会津若松の中心です。さらに、雪が降った時の鶴ヶ城の素晴らしさといったら、筆舌に尽くしがたいですよね。

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鶴ヶ城説明版

この「鶴ヶ城」ですが、本名は「若松城」といい、「鶴ヶ城」というのはいわゆる「愛称」として呼ばれています。

 

ここで違和感を感じませんか?そう、「鶴」です。このあたりで鶴は見れませんし、なによりも会津若松の隣にある「猪苗代湖」は圧倒的に「白鳥」で有名です。あまり気にする人はいないかもしれませんが笑 というわけでなぜ、「若松城」「鶴ヶ城」というのか、簡単に解説します。




 

「鶴ヶ城」はもともと「黒川城」だった


まず、簡単な鶴ヶ城の基礎知識です。鶴ヶ城の築城年は意外と古く、なんと「1,384年」なんです。戦国時代よりだいぶ前の南北朝時代の時ですね。築城主は「蘆名直盛(あしななおもり)」といい、この「蘆名氏」は戦国時代に最盛期を迎える名門です。

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鶴ヶ城天守閣

そして、この蘆名氏の時代には、この地域は「会津若松」ではなく「黒川」という地名でした。そして「鶴ヶ城」「黒川城」と呼ばれていたんです。「若松」という地名はまだこの頃には存在しません。

 

「蒲生氏郷」が全てのきっかけに


上記の蘆名氏ですが、その終焉は戦国時代でした。1589年に欧州の覇者、「伊達政宗」に滅ぼされてしまいます。そして1590年に「蒲生氏郷(がもううじさと)」という私が最も好きな人物の一人に豊臣秀吉が会津の地を与えます。

 

蒲生氏郷はもともと近江(滋賀県)の大名である「六角氏」に仕えていた「蒲生賢秀」の三男ですが、六角氏が「織田信長」に滅ぼされた後に、信長に仕えることとなります。信長は氏郷に対して、「蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう」と、幼少の氏郷を非常に高く評価していました。

 

信長が本能寺の変で倒れると、その後は豊臣秀吉の元でメキメキと出世を果たします。そして、秀吉の小田原征伐後、秀吉は氏郷に会津42万石を与えることとなります。いわゆる「奥州仕置」というやつです。

 

これには諸説あり、「奥州で不穏な動きをする伊達政宗への抑え」であったり、「信長から高く評価されていた氏郷を秀吉が恐れ、中央より遠くにやらせた」と言われていますが、いずれにせよそれだけ氏郷の能力が高かったことの証左かなと思っています。

 

鶴ヶ城の秘密は蒲生氏郷に


この蒲生氏郷こそ、「会津若松の祖」と言っても過言ではありません。黒川の地に入った氏郷はさっそく街の開発、城の改造をしていきます。そしてこの時、「黒川」という地名を「若松」へと変えました。「会津若松」の誕生です。また、「楽市・楽座の導入」や水田開発、文化推奨等、次々と経済基盤を作り上げていきます。

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蒲生氏郷時代の痕跡

様々な政策を施した氏郷は会津若松の民からも愛されていたようです。そして、この「会津若松城」を彼の幼名である「鶴千代」、また蒲生氏の家紋である「蒲生対い鶴」にちなみ、「鶴ヶ城」と呼ぶようになったんです。

 

これが、「鶴ヶ城」の秘密です。ですが、天才はあまりに急に早世してしまいます。享年39歳でした。氏郷の死後、城主は「蒲生氏」から「上杉氏」「加藤氏」と次々と変わっていきます。最終的には「松平容保」で有名な「松平氏」が治め、「白虎隊の悲劇」へとつながるわけです。

 

ですが、ここまで歴代城主が変わっても現代にまで蒲生氏郷にちなむ「鶴ヶ城」と呼ばれ続けているということは、それだけ蒲生氏郷がこの会津若松にとって大事だったか、ということを現わしていることに他なりません。蒲生氏郷もさぞ、喜んでいることでしょう。




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