鹿児島に来たなら「熊襲の穴」には絶対にいくべし!
来ました、鹿児島!!いや~、鹿児島は「島津」や「神話時代の話」等の歴史濃い場所がたくさんあるので一度は来たかったのですが、ついにこれました!
そんな鹿児島ですが、第一発目は「熊襲の穴」です!これ、あまり聞いたこと無い人が多いと思いますが、歴史上めちゃくちゃレアな場所なんです。このサイトでも度々取り上げていますが、またもやあの「ヤマトタケル」にまつわる歴史です。さっそく、見ていきましょう!
熊襲とは?
まずは、題名にもなっている「熊襲」の説明からです。「熊襲(クマソ)」とは、九州南部にあった「大和政権」に抵抗していたとされている「人々」や「地域」のことを指します。現在の熊本の「球磨(くま)」と鹿児島の「曽於(そお)」をつなげると「クマソ」と読めるので、その地域一体が「クマソ」であったという説もあります。
クマソには代々、「イサオ」と呼ばれるいわば「頭」と、「タケル」と呼ばれる「小集団と頭」の連合体で、「イサオ・タケル制」であったと言われています。
ヤマトタケルの登場
出ました、「ヤマトタケル」!またもや復習になりますが、「ヤマトタケル」とは第12代「景行天皇」の皇子で「東国征伐」を行ったことで有名です。西暦でいうと100年前後ですね。その時に「嬬恋」や「焼津」の地名が今にまで伝わっていることは別記事で記載しました。
<参考記事>
そのヤマトタケルが行った二大偉業というのが先述した「東国征伐」と「熊襲征伐」なんです。そう、「熊襲」です。今回のテーマがそれです。
分熊襲征伐とは?
では、ヤマトタケルの「熊襲征伐」とはどのような内容だったのか、簡単に説明します。当時の大和政権の力は日本全国に及んでおらず、特に中央から離れれば離れるほど、その求心力は低かったわけです。なので、この時代は度々「遠征」が行われており、ヤマトタケルの「東国征伐」と「熊襲征伐」もこの一環と思ってください。
当時の「ヤマトタケル」はまだ「ヤマトタケル」と呼ばれておらず、「オウスノミコト」またの名を「ヤマトオグナ」と呼ばれていました。ここでは「ヤマトオグナ」で統一します。
「ヤマトオグナ」は熊襲をどのように倒すかに苦慮していました。というのも、熊襲はとても蛮勇であり、一方のヤマトオグナ側の兵力はほんのわずかだったからです。大和政権からかなり距離的にも離れているため、その威光は届いていない場所です。
そこでヤマトオグナは熊襲の宴会時に女装して忍び込み、当時の熊襲の首長であった「川上タケル(クマソタケル)」を寝所で倒してしまいます。その時に、川上タケルがヤマトオグナの勇気と豪胆さに感服し、死の間際に「タケル」の名前をヤマトオグナに献上したとされています。
そう、ここで初めて「ヤマトタケル」の誕生です。
熊襲の穴とは?
私が前から行きたかった「熊襲の穴」とは、ヤマトオグナが川上タケルを討った場所のことをなんです!こんな昔の話で、しかも伝説的な場所に来れるなんて感動しませんか??
<熊襲の穴の場所>
熊襲の穴は霧島市にあり、空港からとても近いです。しかも、この霧島にはいい温泉がたくさん湧いているため、宿も多いのでアクセスしやすい場所です。
ちゃんと駐車場も完備されており、看板も掲げられているのでまず迷わないと思います。ただし、少しばかり山を登ってきますが、それもそんなに大変ではありません。15分ほど登ると、見えてきました!「熊襲隼人」の看板が!!
熊襲の穴入口
きたっ!これだ、熊襲の穴!!ちゃんと説明書きがあるのもうれしいですね。
説明板
かなり神聖な感じになってきましたね。さっそく、入ってみましょう!
熊襲の穴入口
中はこんな感じです!かなり涼しいですよ。鍾乳洞のような感じです。写真では狭く感じますが、中は思った以上に広く、昔はもっと広かったみたいですよ。やはりこの辺りはローム層なので年々崩れて狭くなっているようですね。一帯には「熊襲文様」みたいなものが施されていました。
熊襲の穴内部
いや~、ヤマトタケルの熊襲征伐の話は知っていましたが、まさかこの目でその伝説的な場所を見れるとは思っていませんでした。鹿児島に来た際はぜひ、「熊襲の穴」に寄ってみてください!神話時代の歴史を肌で感じられますよ。