あの菊池武光と日本三大合戦に関係が?福岡県太刀洗の地名の由来を簡単に解説!

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福岡から温泉につかりに別府へ向かう車中、珍しい地名を見つけました。それは、「太刀洗」という地名でした。正式には、「福岡県太刀洗町」なのですが、この地名と九州のこの地から連想するに、「もしや、この太刀洗はあの太刀洗では!??」とめまぐるしく脳内が動き出しました。そして、やはりその仮説はあっていた、というニヤリな話なのですが、この「太刀洗」はかなり歴史を色濃く反映した地名なんです。

 

さっそく、この太刀洗の地名の由来をみていきましょう!




まずはこう考える。


「太刀洗」という地名は意味的にはとても分かりやすいですよね。太刀洗を分解すると、「太刀を洗う」です。では、太刀をなぜ洗うか分かりますか?そう、「刀についた血を落とすため」です。次にこう考えます。「では、なぜ刀に血がついたのか?」と。これも簡単ですね。「合戦」です。では、何の合戦か、推測していきましょう。

 

日本三大合戦の一つ、筑後川の戦い


九州の有名な合戦といえば、戦国時代の大友軍VS島津軍の「耳川の合戦」や豊臣秀吉が九州平定のために島津軍と戦った「戸次川の戦い」なんかが有名だと思います。どちらも、兵力が万単位の戦いです。ですが、どちらも場所が違うんです。「耳川は宮崎県」を流れており、「戸次川は大分県」を流れています。合戦もそれぞれ、宮崎と大分で行われています。

 

一方の太刀洗は現在の福岡県にあります。ということは、この二つの戦いではありません。では、耳川と戸次川以外で大きな九州の戦いといえば・・・・・一つしかありません。「筑後川の戦い」です。筑後川の戦いというのは、南北朝時代に行われた「足利尊氏側の北朝」と「後醍醐天皇の皇子である懐良親王側の南朝」が激戦を繰り広げた戦いです。ちなみに、懐良親王の熱く語った記事があるので、参考までにどうぞ。すごい人物ですよ。

参考記事:九州統一を目指した男、後醍醐天皇の皇子懐良親王の物語

 

ちなみに、合戦には「日本三大合戦」というものがあります。そのうち二つは戦国時代の「武田信玄vs上杉謙信の川中島の戦い」、そして「徳川家康vs豊臣方(石田三成)の関ヶ原の戦い」です。そして残る一つが南北朝時代のこの「筑後川の戦い」なんです。それだけ、激戦だったことがこのことからも分かると思います。

 

そしてこの筑後川というのは福岡も通っています。つまり、この太刀洗の地名の由来となった合戦は「筑後川の戦い」なんです。



最後のキーワードは、菊池武光


では次に考えるのが「誰が洗ったか」です。これは最初に答えを言います。その人物は「菊池武光」です。この人物は個人的にかなり好きな人物です。菊池武光ならびに菊池家は南北朝時代、南朝側である「懐良親王」側につきます。菊池氏というのは代々武門の家で、現在の熊本県菊池を本拠としていた一族です。あの西郷隆盛も菊池氏の末裔といわれているほどの名門です。その中でも菊池武光は特に優秀な人物です。

 

南北朝時代の初期というのは圧倒的に足利尊氏側の北朝が有利だったんですが、九州だけは違いました。九州南朝の「懐良親王」と「菊池武光」はどちらも非常に優秀な人物で、あっという間に九州統一寸前まで九州を統治していきます。そして当時、九州北朝の一大勢力といえば、大宰府の「少弐氏」でした。少弐氏も菊池氏に劣らぬ名門で、九州北部に一大勢力を築いていました。

 

そして、その九州の二大勢力が筑後川で大衝突します。1359年8月29日のことでした。記録には、両軍あわせて10万の兵力がぶつかり、5千人もの兵士が戦死したといわれています。結果として、懐良親王と菊池武光の南朝側が勝利しますが、その激戦の中、懐良親王と菊池武光も傷を負います。大将自らも傷をおうということからも、激戦であることが伺えます。

 

そして、この激戦で血糊のついた刀を洗った人物こそ、この「菊池武光」なんです。そのため、大刀洗町公園には立派な武光の銅像が建立されています。この時は武光の銅像を見てこれませんでしたが、一度ちゃんと見に行きたいと思うスポットです。

 

太刀洗の地名の由来を一言で言ってしまうと「筑後川の戦いで血糊のついた刀を、菊池武光が洗ったことに由来する」となってしまいますが、決して一言に凝縮することができないほど濃い歴史と背景が、ここにはあります。

 

ちなみに、この懐良親王と菊池武光のことが知りたい方はこの本が超絶おすすめです。もう、何回読んだか分からないほど読み返しました。むしろ、歴史好きの方は一回は読んでおいていただきたい本です。何回も言いますが、おすすめです。




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