日本最古で初の忍者は誰?実はあの聖徳太子に関係が・・・

「忍者」といえば、もはや日本のみならず、全世界で有名ですよね。「NARUTO」なんかもフランスを中心にめちゃくちゃ人気です。「有名な忍者といえば誰??」という質問に対しては、人によって答えが様々だと思います。それこそ、「NARUTO」や「忍者ハットリ君」のようにアニメや漫画のイメージを持つ人もいるでしょうし、戦国時代の「服部半蔵」や「風魔小太郎」、「猿飛佐助」と答える人もいるでしょう。

 

では、いったいぜんたい日本最古で初の忍者といわれている人物は誰なのでしょうか?諸説ありますが、実は誰もが知るあの人物に関係があるんです・・・さっそく、見ていきましょう。




そもそも忍者とは?


みなさんが想像する「忍者像」は主に漫画やアニメによるところが多いと思います。「火遁」や「水遁」などの様々な術を使ったり、どこでも飛び跳ね、はたまた消える・・・・まるで超人離れしたイメージをもっているかと思いますが、実際は人間です。なので、人間の域を超えることはできません。

 

とはいえ、忍者の活動は多岐に渡ります。例えば・・・・敵国に対する「諜報活動」であったり「破壊活動」、はたまた要人の「暗殺」やその逆の「用心棒」等様々です。これらの活動を行うに際しては、様々な知識や武術、身のこなしや状況判断等、高い身体能力と知能が必要となってきます。と、いうことは通常の人より総合的なスキルや能力が高かったと考えられます。そのため、漫画やアニメのようなイメージへと昇華していったのでしょう。

 

実際に織田信長は「忍者の里」と言われる「伊賀の国」へ攻め込み苦汁を飲んでいますし、徳川家康は本能寺の変後に「伊賀超え」という伊賀忍者に助けられ命からがら国へ帰るということまで起きています。「服部半蔵」は家康の配下であり、それまでの功績から江戸城を守る「半蔵門」の由来は彼からきています。戦国時代は世が世のため、忍者の活躍できる範囲はとても広かったのですが、では最古の忍者はいつなんでしょうか??

参考記事:半蔵門の名前の由来はあの有名忍者、服部半蔵にあった!?

 

なんと聖徳太子まで遡る


「聖徳太子」といえば、知らぬ人がいないほどの知名度です。「厩戸皇子」ですね。せっかくの機会なのでもう一度、聖徳太子について復習してみましょう。聖徳太子(574年-622年)は飛鳥時代の皇族で、「用明天皇の第2皇子」ですね。遣隋使等により中国の先進的な知識を取り入れた彼は、「推古天皇」のもとで蘇我馬子と協力し、「冠位十二階」や「十七条の憲法」等の中央集権的な基盤を構築。また、仏教の普及にもつとめました。

 

実はその聖徳太子こそが「日本初の忍者を使っていた」と言われています。その名も「志能便(しのび)」です。要は「忍」ですよね。その「志能便」の人物の名は「大伴細人(おおとものほそひと)」という人物で知られています。この「大伴」というネーミングからも分かるとおり、聖徳太子よりも前の時代に隆盛をほこった「大伴氏」の出自といわれています。この大伴細人の流れが、後の「甲賀忍者の源流」といわれています。




では、何のために志能便を使ったのか?


ではなぜ、聖徳太子は「志能便」を使っていたのでしょうか?この飛鳥時代のイメージを持つ人は少ないと思いますが、この時代というのは決して天皇家は強い力をもっていませんでした。むしろ、「蘇我氏」が権勢を誇っていた時代でした。天皇が蘇我氏の傀儡となったり、暗殺されることも発生したくらいですからね。今では考えられないことです。また、朝廷の中でも複雑に派閥が分かれており、政権内部で血みどろな戦いが発生していました。

 

そこで、相手方の出方や情報を探る必要がでてきます。つまり「スパイ」です。聖徳太子は「大伴細人」に「志能便」としてスパイ活動をさせていました。また、自身の警護としても利用していたのでしょう。

 

このような血みどろの権力闘争・派閥闘争の中でうまれたのが「志能便」という、いわば「スパイ」なんです。スパイがもってくるのは、「新鮮な情報」です。いつの時代も「情報を制したものが勝つ」というのは、不変の原則です。既に、この時代においてもそのような活動が行われていました。悲しき副産物にも思えますが、その後の社会でもはや世界中から人気のある忍者像へと進化を遂げるとは、聖徳太子は夢にも思わなかったでしょう。




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