豊臣秀吉と伊藤博文、二人の共通項は「ふぐ」だった?

高級魚として知られている「ふぐ」。個人的にはどうもサンマやサバの方がおいしいと感じてしまい、ふぐのおいしさがおいしいと感じる域には達していないのですが、それはさておき!このふぐちゃん、そのかわいい顔とはうらはらに内蔵に猛毒を持っていることはあまりにも有名ですよね。この毒は「テトロドトキシン」といって、いまでも年間二桁のふぐ食中毒が発生しています。

 

なんでこんな突拍子もなくふぐの話をしているのかというと、実は「とある歴史上の有名人物」がひじょ~にふぐと縁があるんです。誰もが知る人物です、しかも二人!その人物こそ「豊臣秀吉」と「伊藤博文」です。ですが・・・豊臣秀吉は戦国時代の人物、伊藤博文は江戸から昭和にかけての人物ですよね?かなり世代が離れてしまっていますが、いったいこの二人にはどんなふぐの関係があるのでしょうか?という話をいたします。




ふぐに激おこの豊臣秀吉


豊臣秀吉といえば、農村出身から天下人にまでのぼりつめた大出世人ですよね。関東北条王国を小田原攻めにて滅ぼし、国内をほぼ平定した秀吉は晩年に「朝鮮出兵」を行います。朝鮮出兵というのはもちろん船で朝鮮まで行かなければいけないため、秀吉は日本全国の武士達を福岡に集めます。しかし、なんせ数が数だけに、福岡だけ収まらず、近辺に散らします。その武士の集合地の一つに山口県の「下関」がありました。わりかし福岡に近いですからね。

 

下関に集まった全国の武士はもちろん食事をとらなければいけません。そんな武士達は下関で釣りをしはじめます。下関といえば、なんといっても「ふぐの名産地」ですよね。そんなふぐを見たことない武士達は釣れたふぐを内臓ごと食しはじめます。猛毒のテトロドトキシンが内蔵に含まれることを露知らず・・・・

 

案の定、下関に集まった武士達はふぐの毒にあたり、バタバタと倒れていきます。そのことを聞いた秀吉は大激怒です。「戦に使う命を、戦の前にふぐで落としてどうする!!!」と。激おこの秀吉は怒りくるってお触れをだします。そのお触れこそが「ふぐ食禁止令」です。「このふぐ、食すべからず」ということですよね。

 

この事件以降、武士はふぐが食べられなくなってしまいました。




ふぐ解禁の伊藤博文


そんな秀吉のふぐ食禁止令から約300年、ようやくふぐ食禁止令が解禁されます。その解禁した人こそ初代総理大臣であり、かつ長州出身(山口県)の「伊藤博文」でした。

 

1888年、下関を訪れた博文は「春帆楼」という宿に滞在します。当時もふぐ食禁止令は継続していましたが、この日シケで魚がなかなか取れず、残ったのはなんとふぐ。春帆楼の女将さんは打ち首覚悟で博文にふぐ料理を出したところ・・・・・これが大当たりでした。博文がふぐのうまさに感動し、「こんな魚を食べられないのは勿体ない!!!」と山口県知事にかけあい、ふぐ食の許可をとりつけることとなりました。

 

しかし、この時の解禁は「山口県限定」でした。伊藤博文が山口県出身ということもあり、ふぐブランド=山口県としたかったのでしょう。しかしその後、ふぐの調理法も確立されたことをきっかけに、全国にふぐ食解禁がなされることとなります。戦後のことでした。

 

秀吉のふぐ食禁止令から伊藤博文の解禁、そして戦後にかけて全国へ。秀吉と博文の見事なバトンリレーがここに成立したわけです。




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