金山城に行く前に、「新田義貞公」由来の太田市「金龍寺」に立ち寄ろう

群馬県太田市にふらっと行ってきました。目的は「日本100名城」でもあり「関東7名城」でもある「金山城」!この城は戦国時代、「由良成繁・国繁親子」が支配しており、かの「上杉謙信」「武田勝頼」を攻撃をも退けている名城中の名城です。

 

と、本来であればこのまま「金山城」をご紹介したいのですが、今回の話はその金山城ではありません。金山城に行く手前でたまたま立ち寄った「金龍寺」というお寺のお話です。特に、このお寺の存在はそもそも知らず、車を走らせていてふと気になって立ち寄ったのですが、これが思わぬ歴史との出会いとなりました。それが、歴史の面白いところです。




 

ふと、立ち寄った金龍寺


「金龍寺」ですが、「太田駅」から見て「金山城」に向かう道中にあります。ちょうど「金山」の麓あたりという感じでしょうか。なので、太田駅方面から車で向かうと、確実にこの金龍寺を通ります。

境内はこんな感じになっています。紅葉の時期はかなり綺麗だと思いますよ。小高い丘になっているので、場所によっては太田市街が一望できます。

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雰囲気の良い境内

 

ふと、気づいたことが・・・・


雰囲気の良い境内だな~と散策をしていると、ふと違和感を覚えました。違和感というよりも、見知った人物の名前が随所に出てくるんです。その名こそ「新田義貞」です!

新田義貞といえば、源氏棟梁の流れを汲み、足利尊氏と縁戚であり、鎌倉幕府のある鎌倉に攻め込んで鎌倉幕府の討幕物語に欠かせない人物の一人です。その後の南北朝時代ではかの「楠木正成」「北畠顕家」と共に「後醍醐天皇」側である「北朝」につき、「南朝」側である「足利尊氏」と戦った人物です。詳細は下記過去記事をご参照ください。

参考記事:なぜこんなところに?分倍河原駅前にある新田義貞像についてその理由を解説

 

その瞬間、私の金山城を見に来た「戦国脳」から「鎌倉~南北朝脳」へシフトしました。この太田市周辺は当時、「新田荘」といい、新田氏のお膝元でした。また、先ほど「金山城」の戦国時代の城主は「由良成繁・国繁親子」とお伝えしましたが、この「由良氏」というのは「新田義貞の三男である新田義宗の子孫」です。

 

そのため、まさにこの新田氏の土地だった場所に新田義貞を祀ってあることに、なんら不思議はありませんよね。




新田義貞の形跡


境内にはいたる所に新田義貞の形跡を見ることができます。例えば、こちら。

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お堂

立派なお堂ですよね。これのどこか新田義貞なんだ?と思うかもしれません。もう少し近づいてみましょう。こちらです。

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義貞院

はい、まさに「新田義貞」そのものですよね!これを見た瞬間、アドレナリンが全身を駆け巡りました。

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義貞公墓所

こちらもですね。手を合わせ、南北朝時代に想いを馳せたのは言うまでもありません。

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説明板

 

説明板を見て納得しました。「新田義貞は1338年に越前の地(福井県)で戦死してしまいますが、1398年に新田氏の土地であるこの地にお堂を建立し、新田義貞の菩提を弔った」、とあります。一時荒廃期もありましたが、現在に至るまで、地元の人々に親しまれ、大事にされていることが境内を見ただけでもわかります。なによりも、雰囲気がとてもよく、新田義貞がいかに新田荘地域の方々に愛されているかの証左そのものかと。

 

金山城に行く前にはぜひ、この金龍寺に立ち寄って、新田義貞公に手を合わせてから金山城に向かってください。歴史順序的にも、そのほうがおすすめです。




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